出自と経歴
- 字は隠忍、東海の人。祖の度之は斉の南徐州議曹従事史、父の僧権は梁の東宮通事舎人・領秘書で書をよくすることで知られた。伯陽は敏くして学を好み、親への孝養に節度があった。年十五で文筆をもって称され、『春秋左氏』を学び、家蔵の史書は読んだものだけで三千巻近くに及んだ。試策高第となり、尚書の板授で梁の河東王国右常侍・東宮学士・臨川嗣王府墨曹参軍を歴任した。大同中に候官令として出た。侯景の乱で伯陽は海路南して広州に至り蕭勃に依った。勃が平らげられると帰朝し、家族を連れて呉郡に移った。天嘉二年(561年)詔して晋安王の侍読となり、まもなく司空侯安都府記室参軍事に除せられ、安都は素よりその名を聞き席を降りて礼を尽くした。甘露が楽游苑に降った際、詔して安都に賜り伯陽に謝表を作らせ、世祖はこれを見て奇とした。
- 太建初め、中記室李爽・記室張正見・左民郎賀徹・学士阮卓・黄門郎蕭詮・三公郎王由礼・処士馬枢・記室祖孫登・北部賀循・長史劉删らが文会の友となり、後に蔡凝・劉助・陳暄・孔範も加わった。皆一時の名士であり、遊宴と賦詩を巻軸にまとめ、伯陽がその集の序を作り世に広く伝わった。新安王が南徐州刺史となると鎮北新安王府中記室参軍・兼南徐州別駕・帯東海郡丞に除せられた。鄱陽王が江州刺史となった際、伯陽が使いとして訪れ、王は府僚を率いて伯陽と匡嶺に登り宴を開き、酔いに任せて筆を執り「劇韻二十」を賦させたところ伯陽は祖孫登とともに真っ先に作り終え、王は奴婢と雑物を賜った。新安王が京師に帰ると臨海嗣王府限外諮議参軍に除せられた。十一年(579年)春、皇太子が太学に幸した際、詔して新安王に辟雍で『論語』の題を発させ、伯陽に「辟雍頌」を作らせたところ大いに賞賛され、鎮右新安王府諮議参軍事に除せられた。十三年(581年)姉の喪を聞いて病を発し卒した。時に年六十六。