出自と経歴
- 字は見賾、清河東武城の人。祖の蓋之は魏の散騎常侍・勃海長楽二郡太守、父の脩礼は魏の散騎侍郎で梁に帰し本職を拝し懐方太守に遷った。正見は幼くして学を好み清才があり、梁の簡文帝が東宮にあったとき、正見は十三歳で頌を献じ、簡文帝は深くこれを賞賛した。簡文帝は学業を尊び常に自ら座に登って経を説き、正見はその講筵に列席して疑義を決するよう求め、応答は和順で立ち居振る舞いも詳雅であったため、満座の目を引いた。太清初め策問に射て高第となり、邵陵王国左常侍に除せられた。梁の元帝が立つと通直散騎侍郎を拝し、彭沢令に遷った。梁末の喪乱に遭い匡俗山に避難したが、当時焦僧度が兵を擁して自保しており、使いを遣わして交わりを求めてきた。正見はこれを恐れ、謙遜した言葉で応じつつも礼法を守り続け、僧度もまた彼を敬い憚った。
- 高祖受禅の後、詔して正見を京師に還らせ、鎮東鄱陽王府墨曹行参軍・兼衡陽王府長史に除せられ、宜都王限外記室・撰史著士・帯尋陽郡丞を歴任し、累遷して尚書度支郎・通直散騎侍郎・著士如故となった。太建中に卒した。時に年四十九。集十四巻があり、その五言詩は特に優れ、大いに世に行われた。