陳書卷三十四 列傳第二十八 何之元

何之元、廬江灊の人。梁・王琳に仕えたのち陳に帰属し、始興王叔陵の幕下を経て人事を絶ち著述に専心した学者。梁の興亡を記した『梁典』三十巻を著したことで知られる。禎明三年(589年)の陳滅亡後は常州晋陵県に移り住み、隋の開皇十三年(593年)に自宅で没した。

年表(3件)

出自と経歴

  • 廬江灊の人。祖の僧達は斉の南台治書侍御史、父の法勝は行いをもって聞こえた。之元は幼くして学を好み才思があり、喪に服する際礼を過ぎるほど厳格であった。梁の司空袁昻に重んじられ、天監末年昻の表薦により召見され、梁の太尉臨川王揚州議曹従事史を出仕の初めとし、まもなく主簿に転じた。昻が丹陽尹となると丹陽五官掾に辟され戸曹事を総べ、まもなく信義令に除せられた。之元の同族の敬容という者は勢威が盛んで頻繁に往来を求めたが、之元は終始訪れなかった。理由を問われて「昔、楚の人が観起に寵愛され馬を持つ者が皆滅んだ故事がある。徳が薄く任が重いと必ず覆滅が近づく、私はその利を得ずに禍を招くことを恐れる」と答え、識者はこれを称賛した。
  • たまたま安西武陵王が益州刺史となり、之元を安西刑獄参軍とした。侯景の乱で武陵王は太尉承制の下で南梁州長史・北巴西太守を授けられ、成都から軍を挙げて東に下ったが、之元は蜀中の民庶とともに抗表して出兵しないよう請うたため、王はこれを衆心を沮喪させるものとみなし之元を艦中に囚えた。武陵王の軍が敗れると、之元は邵陵太守劉恭の郡に従い、まもなく江陵が陥落し劉恭が卒すると、王琳に記室参軍として召された。梁の敬帝が琳を司空に冊した際、之元は司空府諮議参軍・領記室に除せられた。王琳が蕭荘を擁立すると中書侍郎に任じられ、たまたま北斉文宣帝が薨じたため之元を弔問に赴かせたが、帰路寿春に至ったところで王琳が敗れ、斉主は之元を揚州別駕とした(治所は寿春である)。
  • 陳の諸軍が北伐して淮南の地を得ると、湘州刺史始興王叔陵が功曹史柳咸に書を持たせて之元を召したが、之元は当初朝廷と隙があったため書が届くと大いに恐れ惶き、書中の「孔璋(陳琳)に罪はなく、左車(李左車)は用いられた」という一節を読み、仰いで嘆じて「言葉がここまでに至るとは、私を欺くことがあろうか」と言い、ついに柳咸に従って湘州に赴いた。太建八年(576年)中衛府功曹参軍事に除せられ、まもなく諮議参軍に遷った。叔陵が誅されると、之元は人事を絶ち著述に専心し、梁氏は武帝に始まり敬帝に終わるがその興亡の運と盛衰の跡は鑑戒とし褒貶を定めるに足ると考え、始終を究めて斉の永元元年に起こし王琳の捕獲される時まで七十五年間の事跡をまとめ、三十巻の草稿として『梁典』と名づけた。
  • その序の要旨は次のとおりである。記事の史書と編年の書はそれぞれ体裁が異なるが、『尚書』が唐帝を「堯典」、虞帝を「舜典」と称した先例に倣い書名を『梁典』とすること。梁の天下は中大同以前は概ね安寧であったが太清以後は寇盗が相次いだため首尾を通じて論じるのは適切でなく、全体を六つの意義(部)に分けたこと。すなわち、高祖の創業は斉末に始まるためその淵源を斉の永元元年から起こす部分、世祖に至るまでの治世を扱う「太平」の部、それに続く乱世を扱う「敍乱」の部、高祖崩御から太宗幽閉までの功を世祖に帰す「世祖」の部、敬帝が禅譲するまでを扱う「敬帝」の部、驃騎将軍王琳が蕭荘を擁立したことを忠節として立てる「後嗣主」の部である(太宗には美諡が贈られたが「大宝」の号は世に用いられていない、これは賊景に拘束された事情によるものである。承聖の紀年は太清に接続しており、詔書をみだりに改めるべきではないと詳しく論じている)。事には始終があり人には行業があるためこれを詮次すべきこと、臧栄緒が「史書に裁断がなく起居注のようだ」と評されたことに鑑み詳悉を旨としたこと、編年で年次を挙げるのは分明で調べやすいためであること、北方の政権が一君から二主に分裂した事情(分裂前を北魏、分裂後は高氏の輔けた側を東魏、宇文氏の擁した側を西魏とする)を凡例として付したことなどが記されている。
  • 禎明三年(589年)、京城の陥落により常州晋陵県に移り住み、隋の開皇十三年(593年)自宅で卒した。