陳書卷三十四 列傳第二十八 陸琰
陸琰、字は温玉、吏部尚書陸瓊の従父弟。世祖の側近として博学と暗誦の才を重んじられ、斉への聘使中に正使が病没すると自ら使主を務めた。太建五年(573年)に三十四歳で没した。弟の瑜、従父兄の玠、従父弟の琛もそれぞれ文才により東宮の管記などを務めたが、瑜・玠とも若くして没し、琛は宮中の秘語を漏らした罪で死を賜った。
出自と経歴
- 陸琰は字を温玉といい、吏部尚書瓊の従父弟。父の令公は梁の中軍宣城王記室参軍。琰は幼くして孤児となったが学を好み志操があり、州に秀才に挙げられ、宣恵始興王行参軍を出仕の初めとし、法曹外兵参軍に累遷し嘉徳殿学士を直した。世祖は政務の余暇に史籍に心を留め、琰の博学と暗誦の才を評価して側近に置き、かつて刀銘の作成を命じたところ琰は筆を執ってたちどころに一字も直すことなく仕上げ、世祖は久しく感嘆し衣一襲を賜った。まもなく通直散騎常侍を兼ね琅邪王厚の斉への聘使に副使として従い、鄴に至って厚が病没すると、琰は自ら使主となった。時に年二十余、風姿は爽やかで対応も落ち着いており、斉の士大夫は大いに心を寄せた。帰国して雲麾新安王主簿となり、安成王長史・寧遠府記室参軍に遷った。太建初め武陵王明威府功曹史・兼東宮管記となり、母の喪により去官した。五年(573年)卒した。時に年三十四。太子は深く悲しみ、手令を発して挙哀し賻贈を加え、自ら誌銘を製した。至徳二年(584年)司農卿を追贈された。琰は嗜欲少なく競う心もなく、心を経籍に遊ばせて安らかであった。著した文筆の多くは原本が失われ、後主がその遺文を求めて二巻にまとめさせた。
- 琰には弟の瑜がいる。瑜は字を幹玉といい、若くして篤学で美しい詞藻を持ち、州に秀才に挙げられ、驃騎安成王行参軍を出仕の初めとし、軍師晋安王外兵参軍・東宮学士に転じた。兄の琰が当時管記であったため、二人ともに才学をもって左右に侍り、当時の人々は「二応」(三国魏の応璩・応貞父子)になぞらえた。太建二年(570年)、太子が太学で釈奠を行った際、宮臣が皆詩を賦し、瑜に序を作らせたところ、その文は非常に美麗であった。尚書祠部郎中に遷り、母の喪に服し、喪が明けて桂陽王明威将軍功曹史・兼東宮管記となり、累遷して永陽王文学・太子洗馬・中舎人となった。瑜は幼少より読書を昼夜怠らず、聡敏で記憶力が高くひとたび見れば忘れなかった。かつて汝南の周弘正に『荘子』『老子』を学び、僧滔法師に『成実論』を学び、いずれも大意に通じた。当時皇太子は学問を好み群書を博覧しようとしたが、子部・集部の書が多すぎるため瑜に抄撰を命じたが、完成せぬまま卒した。時に年四十四。太子はこれのために涙を流し、手令で挙哀し官が喪事を給し自ら文を製して使いを遣わし弔祭させ、詹事江総への書簡でも深い哀悼を表し、瑜の学識と交誼を偲んだ。至徳二年(584年)光禄卿を追贈された。集十巻がある。
- 瑜の従父兄が玠、従父弟が琛である。玠は字を潤玉といい、梁の大匠卿晏の子。度量が広く学を好み文をよくし、秀才に挙げられ策問で高第となり、吏部尚書袁樞がこれを世祖に薦め、衡陽王文学・直天保殿学士に抜擢された。太建初め長沙王友に遷り記室を領した。後主が東宮にあってその名を聞き管記に召し、中舎人・管記如故を除せられ厚く親任された。まもなく病で失明し郷里に帰ろうとしたところ、太子は衣を脱いで玠に贈り涙を流した。八年(576年)卒した。時に年三十七。太子は挙哀を命じ賵贈を加えた。至徳二年(584年)少府卿を追贈された。集十巻がある。
- 琛は字を潔玉といい、宣毅臨川王長史丘公の子。若くして俊敏で継母に孝を尽くし聞こえた。世祖が会稽太守であったとき、琛は十八歳で『善政頌』を上呈し詞采に優れ、これにより名を知られた。秀才に挙げられ、衡陽王主簿・兼東宮管記を出仕の初めとし、豫章王文学・領記室・司徒主簿・直宣明殿学士を歴任し、まもなく尚書三公侍郎・兼通直散騎常侍として斉に聘使し帰国後、司徒左西掾となり、また東宮管記を掌った。太子は琛の才弁を愛し厚く礼遇した。後主嗣位の後、給事黄門侍郎・中書舎人・参掌機密に遷ったが、性が疎漏で宮中の秘語を漏らした罪に坐し、詔して死を賜った。時に年四十二。