出自と経歴
- 字は思礼、南陽棘陽の人。父の善紆は梁の世に経学で聞こえ、官は呉寧令・司義郎に至った。之敬は五歳で『孝経』を読み、毎回香を焚いて正座して読んだため、親戚は皆感嘆した。十六歳で『春秋左氏制旨孝経義』を策問され高第に擢けられたが、御史が「朝廷には多くの俊才がいるが、明経の慣例では顔回・閔子騫のような者だけが高第となる」と奏したところ、梁武帝はその策文を見て「顔回・閔子騫のような者がまた現れて何が悪いか」と述べ、召し出して面試し、之敬に講座に登らせ、中書舎人朱异に『孝経』を執らせ士孝章を朗唱させて武帝自ら論難したところ、之敬は縦横に解き明かし応対はこだまのようであり、周囲は皆感服した。童子奉車郎に除せられ厚く賞賜された。十八歳で重雲殿の法会に参列した際、武帝が親しく行香してじっと之敬を見て「未だいくばくもなく元服する年頃だな」と言い、即日太学限内博士に除せられた。まもなく寿光学士・司義郎となり、また武陵王安西府刑獄参軍事に除せられた。太清元年(547年)表を上げて吏に任じられることを請い、南沙令に除せられた。
- 侯景の乱で之敬は部下を率いて京師の救援に赴いたが、郡境に至って台城陥落を聞き、衆と別れを告げて郷里に帰った。承聖二年(553年)晋安王宣恵府中記室参軍に除せられた。この時蕭勃が嶺表に拠っていたため、之敬に宣旨慰諭を勅したが、たまたま江陵が陥落し広州に留まった。太建初め朝廷に還り、東宮義省学士を授けられ、太子は素よりその名を聞き特に厚く遇した。累遷して鄱陽王中衛府記室・鎮北府中録事参軍・南台治書侍御史・征南府諮議参軍を歴任した。之敬は初め経学で仕官したが博く文史を渉猟し詞筆に優れ、頑迷な儒者ではなかった。性は謙謹で才学を誇ることなく、後進を導くにも恭しかった。忌日にはいつも自ら掃除し終日涙を流した。士君子はその篤行を称えた。十一年(579年)卒した。時に年六十一。太子は嘆き惜しみ手厚く賻贈した。集十巻が世に行われた。子の徳潤は父の風があり、官は中軍呉興王記室に至った。