陳書卷三十四 列傳第二十八 褚玠

褚玠、字は温理、河南陽翟の人。宋の名臣褚炫の曾孫。廉潔な吏才で知られ、太建中に高宗の命で難治の山陰県令となり豪猾な吏民を摘発したが、私腹を肥やさなかったため帰京の旅費にも事欠いた。のち御史中丞として綱紀粛正に努めたが、志半ばで太建十二年(580年)に五十二歳で没した。

年表(3件)

出自と経歴

  • 字は温理、河南陽翟の人。曾祖の炫は宋の昇明初め謝朏・江斅・劉俁とともに殿中に侍り「四友」と呼ばれ、官は侍中吏部尚書に至り諡は貞子。祖の澐は梁の御史中丞。父の蒙は太子舎人。玠は九歳で父を失い叔父の驃騎従事中郎に養われ、早くから令誉があり先達の多くがその才器を認めた。成長すると風儀が美しく占対に優れ、博学で文をよくし、詞義は典実で華美を好まなかった。王府法曹を出仕の初めとし外兵記室を歴任した。天嘉中に通直散騎常侍を兼ね北斉に使いして帰国後、桂陽王友に遷り、太子庶子・中書侍郎に遷った。
  • 太建中、山陰県は豪猾な者が多く、歴代の県令は皆収賄の罪で免ぜられたため、高宗はこれを憂え中書舎人蔡景歴に「稽陰の大邑に良い長官がいない、卿は文士の中から人材を考えよ」と言うと、景歴は「褚玠は廉潔で幹用があります、その任にふさわしいか分かりませんが」と進言し、高宗は「たいへんよい、卿の言はわが意にかなう」と言い、戎昭将軍・山陰令に除した。県民の張次的・王休達らが猾吏と賄賂で通じ、全丁大戸の多くを隠没していたため、玠は次的らを捕らえて事情を台に上奏し、高宗は手勅で慰労し使者を遣わして捜索を助けさせ、軍民八百余戸を摘発した。当時、舎人曹義達が高宗に寵愛されており、県民の陳信は財力に富み義達に媚びていたが、その父顕文は権勢を恃んで横暴であったため、玠は使いを遣わして顕文を捕らえ百回鞭打たせ、吏民は恐れ震えて犯す者がなくなった。信は後に義達を通じて玠を讒言し、坐して免官された。
  • 玠は在任一年余り、俸禄のみを守り、去官の日には帰る旅費もなく、県境に留まって野菜を作って自給し、ある者は玠を「百里の才ではない」と嘲ったが、玠は答えて「私の租税の徴収は他の県に劣らず、残虐を除き暴を去ったため奸吏は身をすくめている、もし私腹を肥やせなかったことをもって政に通じないと言うなら、私はそれには服さない」と述べ、時の人々もこれを信じた。皇太子は玠に帰る旅費がないことを知り、手書で粟米二百斛を賜り、これにより都に戻った。太子は玠の文辞を愛し殿省に直させた。十年(578年)電威将軍・仁威淮南王長史に除せられ、まもなく本官のまま東宮管記を掌った。十二年(580年)御史中丞に遷り官にあって卒した。時に年五十二。
  • 玠は剛毅で決断力があり騎射にも優れ、かつて司空侯安都に従って徐州に出猟した際、猛虎に遭遇し弓を引いて射ると二発とも命中し虎は倒れた。御史中丞となってからは厳正な取り締まりで知られた。梁末の喪乱以来、朝廷の法令は廃弛し、御史台はこれに従うのみで改革されなかったが、玠はまさに条例と綱維を改めようとし、大まかに挙げて編次したものの未完のまま後に列せられなかった。卒したとき、太子は自ら誌銘を製して旧交を表した。至徳二年(584年)秘書監を追贈された。著した章奏雑文二百余篇はすべて事理に切実で、これにより当世に重んじられた。子の亮は才学あり、官は尚書殿中侍郎に至った。