出自と経歴
- 字は亨道、高陽新城の人。晋の徴士許詢の六世孫。曽祖の珪は給事中を歴任し桂陽太守を委ねられたが志を高くして永興の究山に隠棲した。これが詢の隠棲の地である。祖の勇慧は斉の太子家令・冗従僕射。父の懋は梁の始平・天門二郡守・太子中庶子・散騎常侍で、学芸をもって聞こえ『毛詩風雅比興義類』十五巻・『述行記』四巻を撰した。亨は若くして家業を伝え、孤高で節行があり、群書に博通し前代の旧事に詳しく、名士たちに推重され、南陽の劉之遴に重んじられ常に称賛された。梁の安東王行参軍を出仕の初めとし太学博士を兼ね、まもなく平西府記室参軍に除せられた。太清初め征西中記室・兼太常丞となった。
- 侯景の乱で郢州に避難し、たまたま梁の邵陵王が東より至り咨議参軍に引かれた。王僧辯が郢州を襲うと、素より亨の名を聞き儀同従事中郎に召し、太尉従事中郎に遷り、呉興の沈炯とともに書記を掌り、府の政務はひとえに二人に委ねられた。晋安王承制の下で給事黄門侍郎を授けられ、亨は府に辞去の牋を奉ったところ、僧辯は返書でその文才徳望を賞賛し、久しく幕下に留めたことへの感慨とともに任命を受けるよう促した。
- 高祖受禅の後、中散大夫・領羽林監を授けられ、太中大夫・領大著作・知梁史事に遷った。かつて王僧辯が誅殺された際、担当官が僧辯とその子頠の屍を方山で同じ穴に埋め、誰も言及する者がなかったが、亨は旧吏として抗表しその改葬を請い、旧知の徐陵・張種・孔奐らと家財を出し合って葬儀を営み、七つの柩をすべて改葬した。光大初め、高宗が入朝して政を輔けると、亨の貞正で古人の風があることを重んじ、常に師の礼をもって遇した。到仲挙が高宗を朝廷から出そうと謀った際、毛喜がその欺瞞を見抜き、高宗が亨に問うと、亨は詔を奉じないよう勧めた。高宗即位後、衛尉卿を拝した。太建二年(570年)卒した。時に年五十四。初め『斉書』とその志五十巻を撰したが乱に遭い失われ、その後撰した『梁史』は完成した部分が五十八巻あり、また『梁太清之後所製文筆』六巻がある。子の善心は若くして名を知られ、官は尚書度支侍郎に至った。