陳書卷三十四 列傳第二十八 庾持

出自と経歴

  • 字は允徳、潁川鄢陵の人。祖の佩玉は宋の長沙内史、父の沙彌は梁の長城令。持は幼くして孤児となり至孝の性質で、父の喪に服する際礼を過ぎるほど厳格であった。篤志して学を好み、とりわけ書記に優れ才芸で聞こえた。梁の南平王国左常侍を出仕の初めとし、軽車河東王府行参軍・兼尚書郎を経て正式な官となり、安吉令に出て、鎮東邵陵王府限外記室・兼建康令に遷った(原文には「天監初、世祖と持とは旧知の間柄であった」とあるが、世祖の生年からすると時期が合わない箇所であり、底本の紀年に誤りがある可能性がある。原文のまま記す)。世祖が呉興太守となると持を郡丞として書翰を掌らせ、以後常に文帝(世祖)に従った。文帝が張彪を破り会稽を鎮めると、持に臨海郡を監させたが、貪欲放縦で民心を失い山賊に捕らえられ十旬幽閉された。世祖が劉澄を遣わして討伐させ、持は救われた。
  • 高祖受禅の後、安東臨川王府諮議参軍を授けられた。天嘉初め尚書左丞に遷り、長城の役の功により崇徳県子に封ぜられ邑三百戸を賜った。封を拝した日、令史に客を装わせて贈答品を受け取らせたことが露見し、世祖は怒って坐して免官させた。まもなく宣恵始興王府諮議参軍となり、臨安令に除せられたが県民を杖殺した罪で封を失い、給事黄門侍郎に遷り、稜威将軍・塩官令に除せられた。光大元年(567年)秘書監・知国史事に遷り、また少府卿・領羽林監となり、太中大夫・領歩兵校尉に遷った。太建元年(569年)卒した。時に年六十二。詔して光禄大夫を贈った。持は文字学に優れ、文を作るたびに奇字を好んで用いたため、文士たちはこれを揶揄した。集十巻がある。