陳書卷三十四 列傳第二十八 江徳藻
江徳藻、字は徳藻、済陽考城の人。梁末より仕え、高祖に引き立てられ陳建国後は秘書監・中書舎人を歴任した文学の士。天嘉四年(563年)には北斉への使者となり『北征道理記』を著すなど外交・著述の両面で活躍したが、天嘉六年(565年)に新喩令として在任中に五十七歳で没した。
出自と経歴
- 字は徳藻、済陽考城の人。祖の柔之は斉の尚書倉部郎、父の革は梁の度支尚書・光禄大夫。徳藻は学を好み文をよくし、風儀が美しく身長七尺四寸、至孝の性質で親に仕えて礼を尽くし、異腹の兄弟とも恩恵篤く暮らした。梁の南中郎武陵王行参軍を出仕の初めとし、大司馬南平王蕭偉がその才を聞き東閣祭酒に召し、安西湘東王府外兵参軍に遷り、まもなく尚書比部郎に除せられた。父の喪により去職し、服喪を終えても容貌は喪中のように痩せ衰えていた。安西武陵王記室に除せられたが赴任せず、しばらくして廬陵王記室参軍を授けられ、廷尉正に除せられ、まもなく南兖州治中として出た。高祖が司空・征北将軍となると徳藻を府諮議に引き、中書侍郎に転じ、雲麾臨海王長史に遷った。陳の朝廷が建つと尚書吏部侍郎を拝し、高祖受禅の後秘書監・兼尚書左丞を授けられ、まもなく本官のまま中書舎人を兼ねた。天嘉四年(563年)散騎常侍を兼ね、中書郎劉師知とともに北斉に使いし、『北征道理記』三巻を著した。帰国して太子中庶子・領歩兵校尉を拝し、しばらくして御史中丞に遷ったが公事に坐して免ぜられた。まもなく振遠将軍・通直散騎常侍を拝し、自ら県令となることを求めて新喩令に出て、恩恵を旨とする政治で異績をあげた。六年(565年)官にあって卒した。時に年五十七。世祖は深くこれを悼み、詔して散騎常侍を贈った。著した文筆十五巻がある。子の椿もまた文をよくし、太子庶子・尚書左丞を歴任した。