陳書卷三十二 列傳第二十六(孝行) 司馬暠

出自と孝行

  • 司馬暠、字は文昇、河内温の人。高祖は晋の侍中光禄勲柔之で、南頓王孫であり齊の文献王攸の後を継いだ。父の子産は梁の尚書水部侍郎・岳陽太守で梁武帝の外兄。暠は幼くして聡警で至性があり、十二歳で母の喪に居て孺慕は礼を過ぎ水漿を口にしないことがほぼ一旬に及び、号慟のたびに気を失いかけ、内外の親戚は喪に耐えられぬのではと懼れた。父の子産は常に晓喩し粥を強いて食べさせたが、それでも毀瘠骨立した。
  • 服喪明けに姻戚子弟として問訊に加わった際、梁武帝は暠の羸痩ぶりを見て歎息し父の子産に「先ほど羅児(暠の幼名)の顔色を見たが憔悴していた、これでこそ家風を墜とさぬ子を持ったといえる」と語った。
  • 太学博士から起家し正員郎に累遷、父の喪では哀毀がさらに甚だしく、墓側に廬し一日にわずか薄い麦粥一升のみを食した。墓は新林にあり山阜に連なり以前は猛獣が多かったが、暠が廬を結んで数年、犲狼は跡を絶ち、常に二羽の鳩が廬所に棲み馴れ親しんだといい、新林では今もこれが伝えられている。
  • 承聖中、太子庶子を除せられ、江陵陥落に伴い恒例により関右に入ったが、梁室の太子が屠戮され瘞殯を失っていたため、暠は宮臣として周朝に表を抗し江陵への帰葬・改葬を求め、辞は甚だ酸切であった。周朝は優詔で「昔、主父が戮せられた折、孔車には長者の風があり、彭越が誅された折、欒布には陪臣の礼があった、庶子は郷国が既に改まってなお送往の情を懐き、忠貞と臣道を証した」と答え、荊州に礼をもって安厝させる勅を下した。
  • 太建八年、周より帰朝、高宗は特に殊礼を降し賞賜を加え、宜都王諮議参軍事に除せられ安徳宮長秋卿・通直散騎常侍・太中大夫・司州大中正に徙り、官にあって卒した。文集十巻あり。子の延義、字は希忠は少くして沈敏で学を好み、江陵陥落に伴い父に従い関右に入った。母の喪に礼を過ぎ、暠が都に還る際には自ら霊櫬を負い昼は伏し夜は行き氷霜を冐して手足がみな皸瘃したという。都に至って中風冷を患い攣廃を来し数年かかって癒えた。のち鄱陽王録事参軍・沅陵王友・司徒従事中郎に遷った。