陳書卷三十二 列傳第二十六(孝行) 謝貞

謝貞、字は元正、陳郡陽夏の人、晋の太傅謝安の九世孫。幼くして至孝で知られ、太清の乱・江陵陥落で一族が離散するも太建五年に朝廷へ帰り文官として仕えた。始興王叔陵の反逆に連座せず後主に重んじられ、周に留学した折には趙王の厚遇を受けたが、母の喪に哀毀のあまり至徳三年ごろに没した。

年表(2件)
  • 太建五年朝に還り智武府外兵参軍事に除せられ、のち尚書駕部郎中・侍郎に遷る
  • 至徳三年母の喪により去職、哀毀のうちにまもなく死去

出自と幼少期の孝行

  • 謝貞、字は元正、陳郡陽夏の人、晋の太傅謝安の九世孫。祖の綏は梁の著作佐郎・太子舎人、父の藺は正員外郎・散騎常侍兼。貞は幼くして聡敏で至性があり、祖母の阮氏が風眩を患い発作のたびに一二日食が進まなかった際、貞が七歳にして祖母が食べなければ自らも食べず、親族はみなその孝を奇とした。母の王氏が論語・孝経を授けると読み終えてすぐ暗誦し、八歳のとき「春日閑居」の五言詩を作り、従舅の尚書王筠がその佳致に驚き親しい者に「この子は将来大成する、風が定まってなお花が落ちるような趣(余韻)があり、恵連(謝恵連)の後を追う者だ」と語った。
  • 十三歳で五経の大旨をほぼ通じ、特に左氏伝を善くし草隷・虫篆を能くした。十四歳で父の喪に号頓して絶えかけたことが数度あった。以前、父の藺が母阮氏の喪に居た際、食を断ち泣血して卒したため、家人・賓客は貞が同じことにならないかと懼れ、従父の洽・族兄の暠が華厳寺に赴き長爪禅師に貞への説法を請い、「孝子には兄弟がなく自愛が必須、憂毀のあまり生命を損なえば誰が母を養うのか」と諭したため、貞は以後少しずつ粥をとるようになった。

離散と帰郷

  • 太清の乱で親族が散り、貞は江陵陥落の際に陥没し、暠は番禺に逃れた。貞の母は宣明寺で出家した。高祖受禅後、暠は郷里に還り貞の母を二十年近く供養した。太建五年、貞は朝に還り智武府外兵参軍事を除せられ、尚書駕部郎中に遷り侍郎に転じた。
  • 始興王叔陵が揚州刺史となり祠部侍郎阮卓を記室に引き入れた際、貞も主簿に招かれやむを得ず赴任した。府録事参軍・丹陽丞領に遷った。貞は叔陵に異志ある兆しを察し卓とともに王から距離を置き、宴遊のたびに病と称して未だ参預せず、叔陵も雅に貞を欽重しこれを咎めなかった。高宗崩御後、叔陵が反逆に及んだ際、府僚の多くが連座したが貞と卓だけは坐せず、後主は貞に中宮管記を掌らせ、南平王友・招遠将軍を加え記室事・府長史を掌らせた。

哀毀と晩年

  • 汝南の周確が新たに都官尚書に除せられた際、貞に譲表の代作を請い、後主はこれを見て感嘆した。宴席で後主が確に「卿の表は自製か」と問うと確は「臣の表は謝貞の作です」と答え、後主は舎人施文慶に「謝貞は王の元で禄秩を得ていない、米百石を賜るように」と勅した。至徳三年、母の喪により去職、まもなく勅により府に還され招遠将軍を加え記室を掌らせようとしたが、貞は固辞を重ねて啓し、勅答には「啓を見て事情はわかったが、哀痛の中でも官職は才を待ち礼には権を奪う道理がある、力を尽くして府に還るように」とあった。貞は哀毀羸痩し、ついに官舎に赴くことができなかった。
  • 尚書右丞徐祚・尚書左丞沈客卿が見舞いに訪れ貞の骨立した体を見て愴然と歎息し、徐が「弟の年事はすでに衰えている、礼には恒制があり少しは割いて自愛すべきだ」と諭すと、貞はさらに感慟し気を失うこと久しく、二人も涕泣を抑えられず憫黙して出た。祚が客卿に「まことに孝門に孝子あり」と言うと客卿は「謝公の家は代々至孝と伝わる、士大夫の誰もこれを仰ぎ見ないことがあろうか、ただこの様子では立ち直れまい」と語った。
  • 吏部尚書呉興の姚察は貞と親しく、貞が病篤くなった際に見舞い後事を問うと、貞は「孤子の禍が集まりまもなく灰壌に従うだろう、族子の凱らがおおよそ自立しているので既に疏を付した、厚徳をわずらわすまでもない。今日にも命が尽きようとしている、これで永訣となる。弱児は年六歳、名は靖、字は依仁という、この情だけが心残りで敢えて託す」と語り、その夜に卒した。勅により米百斛・布三十匹を賻贈された。
  • 後主が察に「謝貞に親族はいるか」と問うと、察は「貞には子が一人、年六歳」と啓し、勅により長く衣糧を給された。貞の病篤かった折、族子の凱に遺した疏には「私は幼くして酷罰に遭い、十四で外蔭を失い、十六で太清の禍に遭い、流離して国を絶つこと二十余年、天に号び地に蹐して思いがけず帰国し先人の墳墓を守れたことで自分の分は足りている。朝廷が取り立ててくれ官位を重ねたことは、命を捨てても酬いきれない。今憂棘のうちに晷漏も尽きようとしている今、多くを望むことはない。気絶の後は野に棄て置き僧家の屍陀林の法に依るのが望みだが、あまりに異様に過ぎるかもしれない。薄板で身を覆い露車に載せ葦茨で覆い山を穿って埋めてほしい。また私にはほとんど兄弟がなく他に子孫もいない、靖はまだ幼く人事に通じていないので、三月の間だけ小床を設け香水を供え、卿ら兄弟の厚情に応える程度にとどめ、無益な事はしないでほしい」とあった。
  • かつて貞は周にあって趙王(周武帝の愛弟)の侍読を務め厚遇された。王は側近から貞が独り処すごとに終日涕泣していると聞き、貞の母が老いて遠く江南にあることを知り「私がもし藩に出ることがあれば侍読を家に還らせ供養させよう」と語った。数年後、王は果たして藩に出ることとなり、後主に「謝貞は至孝であり母は老いている、放って還したい」と面奏し、帝は王の仁愛を奇とし許した。貞は聘使杜子暉に随い帰国した。貞の文集は兵乱で多くが失われた。