序――孝行伝の趣旨
- 孔子は「聖人の徳は孝に加えるものがない、孝は百行の本であり人倫の至極である」と説いた。生を奉じて存分に養い送終に哀を尽くす、あるいは泣血三年・絶漿七日、蓼莪の慕を切に顧復の恩を深く思う、あるいは徳が乾坤に感じ誠が幽顕を貫く、こうした孝子は歴代に存在した。陳は梁の喪乱を承け風は薄れ化は衰え、目立った孝行も閭閻に埋もれ聞こえることが少なかったが、今ここに採り集め、闕を補うものとする。
出自と至孝
- 殷不害、字は長卿、陳郡長平の人。祖の任は斉の豫章王行参軍、父の高明は梁の尚書中兵郎。不害は至孝の性で父の喪に礼を過ぎるほど尽くし、これにより少くして知られた。家は倹約で貧窶、弟五人は皆幼弱で、不害は老母に仕え幼弟を養い勤劇至らぬところがなく、士大夫にその篤行を称された。
- 十七歳で梁の廷尉平に仕え、政事に長じ儒術と法を兼ね飾り、判断の軽重に不都合があれば上書して正し、多く納用された。大同五年、鎮西府記室参軍に遷り、本官のまま東宮通事舎人を兼ねた。当時、朝廷の政事は多く東宮に委ねられ、不害は舎人庾肩吾と日直で奏事にあたり、梁武帝は肩吾に「卿は文学の士で吏事は得意でない、なぜ殷不害に来させないのか」と語るほどその見識を認めていた。簡文帝もまた不害の親孝行を評し、その母蔡氏に錦の裙襦・氈席・被褥・単複を賜った。
- 七年、東宮歩兵校尉。太清初め、平北府諮議参軍・舎人はそのまま。
侯景の乱と母の死
- 侯景の乱で不害は簡文に従い台に入り、台城陥落後、簡文が中書省にあった際、景が甲を帯び兵を率いて朝謁したが、その羌胡雑種の兵士は左右に無礼を働き侍衛の者はみな驚き避けたが、不害だけは中庶子徐摛とともに侍側して動じなかった。簡文が景に幽閉された際、不害を伴わせるよう願い出て景は許し、不害の供侍はますます謹んだ。簡文が土塊を呑む夢を見て不快がると、不害は「昔、晋の文公は出奔の折、野人から塊を与えられ、のち晋に帰国した、陛下のこの夢はその事に符合するのでは」と述べ、簡文は「天の徴があるなら、この言葉が誤りでないことを願う」と語った。
- 梁元帝が立つと不害は中書郎・廷尉卿兼を授けられ家属を率いて西の江陵へ移った。江陵陥落の際、不害は別所で督戦しており母の行方を見失った。時は厳寒で氷雪が降り、老弱の凍死者が溝壑を埋める中、不害は道々哭きながら遠近を捜し歩き、溝水中に死者を見るたびに身を投じて扶け捧げ検分し、全身凍れ濡れても水漿を口にせず号泣しやまなかった。七日目にしてついに母の屍を見つけ、屍に凴って哭き、声を上げるたびに気を失った。江陵で仮葬し、王裒・庾信とともに長安に入り、以後蔬食布衣で痩せ枯れ、見る者は皆哀れんだ。
- 太建七年、周より帰朝、その年、司農卿を除せられ光禄大夫に遷った。八年、明威将軍を加え晋陵太守。郡で病を得て光禄大夫として召還され養病した。後主即位に伴い給事中を加えられた。不害の帰還時、周に留まった長子の僧首は関中に居留したが、禎明三年、京城陥落に伴い僧首が迎えに来た。不害は道中で病没した。時に年八十五。
殷不佞――至孝と国事への関与
- 不佞、字は季卿、不害の弟。少くして名節を立て、父の喪に居て至孝で称された。読書を好み特に吏術に長じた。梁に仕え尚書中兵郎から起家し能吏として称された。梁元帝の承制により戎昭将軍・武陵王諮議参軍を授けられ、承聖初め、武康令に遷った。当時、兵荒饑饉で百姓が流移する中、不佞は巡撫し招集して幼子を負って来る者が千を数えた。
- 江陵陥落で母が卒したが道路が隔絶し久しく赴喪できず、四年の間昼夜号泣し居処飲食は常に居喪の礼を守った。高祖受禅後、戎昭将軍に起用され婁令を除せられた。この頃、第四兄の不斉が初めて江陵から母の喪柩を迎え帰葬し、不佞は喪の礼をそのまま三年続け、自ら土を負い松柏を植え、毎年の伏臘には必ず三日食を断った。
- 世祖即位後、尚書左民郎に除せられたが就かず、のち始興王諮議参軍・尚書右丞を兼ね、東宮通事舎人に遷った。世祖崩御後、廃帝嗣位、高宗が太傅録尚書事として輔政し朝望を集めた。不佞は名節を重んじる者として東宮の委任を受けていたため、僕射到仲挙・中書舎人劉師知・尚書右丞王暹らが詔を矯めて高宗を出そうと謀った際、衆人が躊躇う中、不佞は相府へ馳せ赴きその勅令を面宣し高宗を帰邸させた。事が発覚し仲挙らが伏誅した後も、高宗は不佞を重んじ特赦し官を免ずるにとどめた。
- 高宗即位後、軍師始興王諮議参軍に招遠将軍を加えられ、大匠卿を除せられたが拝せぬうちに員外散騎常侍を加え尚書右丞を兼ね、通直散騎常侍に遷り丞はそのまま。太建五年に卒した。時に年五十六。秘書監を贈られた。第三兄の不疑・次兄の不占・次兄の不斉はいずれも早く亡くなり、不佞は末弟として第二の寡嫂張氏に甚だ謹んで仕え、得た禄俸を私室に入れなかった。長子の梵童は尚書金部郎に至った。