陳書卷三十 列傳第二十四 顧野王

顧野王、字は希馮、呉郡呉の人。幼くして博学で知られ、天文・地理・文字学など諸学に通じた学者。侯景の乱では郷党を率いて義軍に加わり京邑を援けた。陳では国子博士・大著作領などを歴任して国史編纂に携わり、玉篇・輿地志など多くの著作を残した(?-太建十三年)。

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出自と博学

  • 顧野王、字は希馮、呉郡呉の人。祖の子喬は梁東中郎武陵王府参軍事、父の烜は信威臨賀王記室・本郡五官掾を兼ね儒術をもって知られた。野王は幼くして学を好み七歳で五経を読みほぼ大旨を知り、九歳で文を能くし日賦を製したところ領軍朱异がこれを見て驚嘆した。十二歳で父に従い建安に赴き建安地記二篇を撰した。成長すると経史を遍く観、天文・地理・蓍亀占候・虫篆奇字に通じないものがなかった。
  • 梁大同四年、太学博士に除せられ中領軍臨賀王府記室参軍に遷った。宣城王が揚州刺史となった際、野王と琅邪の王褒はともに賓客となり、王はその才を深く愛した。野王はまた丹青を善くし、王が東府に斎を起こした際、野王に古賢を画かせ王褒に賛を書かせ、当時「二絶」と称された。

侯景の乱と義軍

  • 侯景の乱に際し、野王は父の喪に居たまま帰郷し、郷党数百人を募って義軍に従い京邑を援けた。野王は元より体が清羸で身の丈は六尺しかなく、喪に居て毀に過ぎ衣にも耐えぬほどであったが、戈を杖き甲を被り君臣の義と逆順の理を陳べ辞を抗し色を作すさまに、見る者はみな壮とした。京城陥落後、野王は会稽に逃れ、のち東陽で劉帰義と合軍し城に拠って賊を拒んだ。侯景平定後、太尉王僧辯はこれを深く嘉し海塩県を監させた。
  • 高祖が宰となると金威将軍・安東臨川王府記室参軍とされ、府諮議参軍に転じた。天嘉元年、撰史学士を勅補され、招遠将軍を加えられ、光大元年、鎮東鄱陽王諮議参軍。太建二年、国子博士に遷った。後主が東宮にあった頃、野王は東宮管記を兼ね本官はそのまま。六年、太子率更令、大著作領を兼ね国史を掌り梁史事を知り東宮通事舎人を兼ねた。当時、東宮の僚には済陽の江総・呉郡の陸瓊・北地の傅縡・呉興の姚察がともに才学で顕著であり論者に重んじられた。黄門侍郎・光禄卿に遷り五礼事を知り、余官はそのまま。十三年に卒した。時に年六十三。秘書監を贈られ、至徳二年、さらに右衞将軍を贈られた。
  • 野王は少くして篤学と至性で知られ、朝にあって言や色を過つことがなかった。その容貌は言を能くしないように見えたが、精力を励まし行いを勤めることでは人の及ぶところではなかった。第三弟の充国が早世すると孤幼を撫養し恩義は甚だ厚かった。撰著に玉篇三十巻・輿地志三十巻・符瑞図十巻・顧氏譜伝十巻・分野枢要一巻・続洞冥記一巻・玄象表一巻があり世に行われ、また通史要略一百巻・国史紀伝二百巻を撰していたが未完のまま没した。文集二十巻あり。