陳書卷三十 列傳第二十四 傅縡

出自と義理仏学

  • 傅縡、字は宜事、北地霊州の人。父の彜は梁の臨沂令。縡は幼くして聡敏、七歳で古詩賦を誦じ十余万言に及んだ。成長して学を好み文を能くし、梁太清末に母を奉じ南に避難、まもなく母の喪に居て兵乱の中で喪を尽くし哀毀骨立、士友にこれを称された。のち湘州刺史蕭循に身を寄せ、循は好士で墳籍を広く集めていたため縡は思うがまま閲覧し博く群書に通じた。
  • 王琳が縡の名を聞き府記室に引き入れた。琳が敗れて縡は琳の将孫瑒に従い都に戻り、世祖が顔晃を遣わし瑒に雑物を賜った際、瑒が縡に謝啓の代筆を託すと文理優洽で文に加点の余地がなかった。晃がこれを言上すると世祖は撰史学士に召し、司空府記室参軍を除せられ驃騎安成王中記室に遷り撰史はそのまま。

明道論

  • 縡は篤く仏教を信じ興皇寺の恵朗法師から三論を受けその学に通じていた。当時、大心暠法師が「無諍論」を著し三論の学者を批判した際、縡は「明道論」を作りこれに反論した(無諍論の要旨は、三論を弘める者が党派的に他師を詆り勝負を争うことこそ生死の苦を増すという批判、明道論はこれに対し、三論の淵源が龍樹・提婆に発し内学・外道の偏見執着を排する広遠なものであること、末流の学者が枝葉を繁くし本源を翳らせている実情を認めつつも、道理の是非を検討する論争そのものは無諍とは矛盾せず、むしろ道を弘め俗に逆らってでも教えを通わせる誠実の表れであることを、問答体で詳細に論じたもの。逐語の引用は略し要旨のみ記す)。

後主朝の重用と獄死

  • 本官のまま通直散騎侍郎を兼ね、斉への使いから還ると散騎侍郎・鎮南始興王諮議参軍・東宮管記を兼ね、太子庶子僕・管記兼はそのまま。後主即位後、秘書監・右衞将軍に遷り中書通事舎人を兼ね詔誥を掌った。縡の文は典麗で性はまた敏速、軍国の大事も筆を下せばすぐ成り、未だ草稿を起こしたことがなく、沈思を要する者もこれに及ばなかった。後主に甚だ重んじられたが、性は木強で検操を持さず、才に負んで気を使い人物を陵侮したため朝士の多くがこれを恨んだ。
  • 施文慶・沈客卿が便佞をもって親幸を得て衡軸を専制すると、縡はますます疎まれ、文慶らは共に縡を高麗の使者から金を受けたと譖し、後主は縡を獄に下した。縡は素より剛直、憤恚のあまり獄中で上書し、後主の酒色過度・郊廟軽視・淫昏の鬼への傾倒・小人の重用・宦豎の弄権・忠直への敵視・生民への冷淡・後宮の奢侈・馬廐の余剰・百姓の流離・貨賂の公行・帑蔵の損耗を痛烈に批判し、「神怒り民怨み、衆叛き親離れ、東南の王気はこれより尽きんとする」と結んだ。
  • 上書に後主は大いに怒ったが、しばらくして意が緩み使いを遣って「赦そうと思うがお前は過ちを改められるか」と問うたところ、縡は「臣の心は面のごとし、臣の面が改められるなら臣の心も改められよう」と答え、後主はますます怒り、宦者李善慶にその事を窮治させ、獄中で死を賜った。時に年五十五。文集十巻が世に行われた。

章華――上書と刑死

  • 当時、呉興の章華、字は伸宗という者がいた。家は代々農夫であったが華だけは学を好み士君子と交わり経史を広く見て文を能くした。侯景の乱で嶺南に遊び羅浮山寺に居て学業に専精した。欧陽頠が広州刺史となった際、南海太守に署せられ、欧陽紇が敗れると都に還った。
  • 太建中、高宗が吏部侍郎蕭引を遣わし広州刺史馬靖に子を質として入れさせた際、引は華を伴い行かせ、使いが還ると高祖は崩御しており後主が即位した。朝臣は華に功伐がないことから排斥し大市令に除せられたが、雅にその職を好まず病と称して辞し、鬱々として志を得なかった。
  • 禎明初、上書して極諫し、高祖が南に百越を平らげ北に逆虜を誅し、世祖が東に呉会を定め西に王琳を破り、高宗が淮南を克復し辟地千里に及んだこと(三祖の功の勤めを述べ)、しかるに後主は即位して五年、先帝の艱難を思わず天命の畏るべきを知らず、嬖寵に溺れ酒色に惑い、七廟を祀るに拝せず妃嬪の前で臨軒し、老臣宿将は草莽に棄てられ諂佞讒邪が朝廷に昇り、疆場は日に蹙まり隋軍が国境に迫っているとして、「陛下がもし弦を改め張を易えなければ、麋鹿が姑蘇台に再び遊ぶさまを見ることになろう」と諫めた。書が奏されると後主は大いに怒り、即日斬るよう命じた。

史論

  • 蕭済・陸瓊はともに才学をもって顕著であった。顧野王は群典を博く極めた。傅縡は聡警特達であり、いずれも一代の英霊というべき人物であった。しかし縡は道に循い進退することができず、ついに極刑に至った、悲しむべきことである。