陳書卷三十 列傳第二十四 陸瓊

出自と早熟

  • 陸瓊、字は伯玉、呉郡呉の人。祖の完は梁の琅邪彭城二郡丞、父の雲公は梁の給事黄門侍郎・掌著作。瓊は幼くして聡慧で思理あり、六歳で五言詩を作り詞采に富んだ。大同末、雲公が梁武帝の詔を受け碁品を校定した際、到溉・朱异らが集まる中、瓊は年八歳にして客の前で局を覆し「神童」と京師で呼ばれた。朱异がこれを言上すると武帝は勅して召見し、瓊の風神警亮・進退詳審に驚嘆した。
  • 十一歳で父の喪に居て毀瘠すること至性に至り、従祖の襄は「この児は必ず家門を担う、いわゆる『一を以て少なしとせず』だ」と歎じた。侯景の乱に際し母を奉じ県の西郷に避難し、勤苦して読書し昼夜怠らず、博学にして文を善くした。永定中、州挙秀才。天嘉元年、寧遠始興王府法曹行参軍、のち本官のまま尚書外兵郎を兼ね、文学により殿中郎兼を経て満年で真授された。

出仕から後主朝の重用

  • 瓊は素より令名があり世祖に深く賞された。周迪・陳宝応らの討伐に関する都官符や諸大手筆はいずれも勅により瓊に付され、新安王文学に遷り東宮管記を掌った。高宗が司徒となり僚佐を妙簡した際、吏部尚書徐陵が高宗に「新安王文学の陸瓊は見識優敏で文史に足用であるのに郎署に留まって歳月久しく、左西掾の欠員にこそふさわしい」と推薦し、司徒左西掾に任じられ、通直散騎常侍を兼ね斉に使いした。
  • 太建元年、本官のまま東宮管記を重ね、太子庶子・通事舎人を兼ね、中書侍郎・太子家令に転じた。長沙王が江州刺史として法度に従わなかった際、高宗は王の年少を理由に瓊を長史とし江州府国事を代行させ尋陽太守を帯びさせようとしたが、瓊は母の老いを理由に遠出を欲さず、太子も固く留めることを請うたため実現しなかった。給事黄門侍郎・羽林監領に累遷、太子中庶子・歩兵校尉領に転じ、大著作領を兼ね国史を撰した。
  • 後主即位後、中書省で詔誥を掌り、散騎常侍・度支尚書兼・揚州大中正領を授けられた。至徳元年、度支尚書、詔誥参掌、廷尉建康二獄事判を兼ねた。父の雲公が梁武帝の勅により嘉瑞記を撰していたのを瓊が続修し、永定から至徳に至るまで一家の言を成した。吏部尚書に遷り著作はそのまま。瓊は譜牒に詳練し人倫を雅鑒した。先に吏部尚書宗元饒が卒した際、右僕射袁憲が瓊を推挙したが高宗は用いず、後主の代になって用いられ称職とされ、後主に深く委任された。

人柄と晩年

  • 瓊は謙倹で自らを飾らず、位望が日に隆んでも志はますます低く、園池室宇は改作せず車馬衣服も鮮華を尚ばず、四時の禄俸はすべて宗族に散じ、家に余財がなかった。晩年は止足を深く懐き権要を避けようとし、常に病と称して事に就かず、まもなく母の喪により去職した。瓊が東宮に侍していた頃、母も官舎に随っており、後主の賞賜は優厚であった。柩が郷里に還る際、詔により賻贈を加え、謁者黄長貴に冊を持たせ奠祭させ、後主は自ら誌銘を作り、朝野にこれを栄とした。瓊は哀慕のあまり毀に過ぎ、至徳四年に卒した。時に年五十。領軍将軍を贈られ喪事は官給、文集二十巻が世に行われた。
  • 長子の従宜は武昌王文学に至った。第三子の従典、字は由儀は幼くして聡敏、八歳で沈約集の回文詩銘を見てすぐに模作し佳致があった。十三歳で柳賦を作り、瓊が東宮管記であった当時の宮僚(当代の俊英が揃っていた)にこの賦を示すと皆その異才に驚いた。従父の瑜に特に愛され、瑜が没する際、家中の墳籍がすべて従典に付され、従典はそれを集めて瑜の文集十巻を編み集序を作った。文は工みであった。
  • 従典は篤く学業を好み群書を博渉し、班固の漢書に特に意を注いだ。十五歳で本州の秀才に挙げられ、著作佐郎から起家、太子舎人に転じた。後主が僕射江総とその父瓊に詩を賜った際、総は従典に謝啓の代作を命じたところ、俄頃にして書き上げ文華理暢、総はその才に驚嘆した。信義王文学、太子洗馬に転じ、司徒左西掾に遷り東宮学士を兼ねた。父の喪により去職、徳教学士に起用されようとしたが固辞、後主は従典を待つため一員を留めた。まもなく金陵陥落に伴い恒例により関右に遷り、隋に仕え給事郎・東宮学士、著作佐郎を除せられ、右僕射楊素の奏により司馬遷史記の続編を隋代まで撰することとなったが、書は成らぬうちに隋末の喪乱に遭い南陽郡に寓居し病没した。時に年五十七。