陳書卷二十九 列傳第二十三 毛喜

毛喜、字は伯武、滎陽陽武の人。高祖・高宗父子に早くから仕え、陳と周の和好交渉や柳皇后・後主の帰国交渉に尽力した外交・機密の腹心。高宗擁立の危機を救った功臣でもあるが、北伐に反対する慎重論が容れられず、のち後主に疎まれて地方官に左遷され、禎明元年、任地から入朝する途中で没した(年七十二)。

年表(6件)
  • 天嘉三年柳皇后・後主を伴い京師に至り、陳周間の和好交渉が実る
  • 太建三年母の喪により去職する
  • 太建十二年侍中を加えられる
  • 太建十三年散騎常侍・丹陽尹・吏部尚書となる
  • 至徳元年信威将軍・永嘉内史に任じられる
  • 禎明元年光禄大夫・左驍騎将軍に徴されるが、赴任途上で卒す(年七十二)

出自と使者としての活躍

  • 毛喜、字は伯武、滎陽陽武の人。祖の称は梁の散騎侍郎、父の栖忠は梁の尚書比部侍郎・中権司馬。喜は少くして学を好み草隷を善くした。梁中衞西昌侯行参軍から出発し記室参軍に遷る。高祖は喜を素より知り、京口鎮の折、喜を高宗とともに江陵へ遣わし「西朝に至れば毛喜に諮り仰ぐように」と勅した。喜と高宗はともに梁元帝に謁見し、高宗は領直、喜は尚書功論侍郎とされた。
  • 江陵陥落後、喜と高宗はともに関右に遷された。世祖即位後、喜は周より還り和好の策を進言、朝廷は周弘正らを通聘に遣わした。高宗の帰国に際し喜は郢州で奉迎し、また入関して家属を求め、周の冢宰宇文護は喜の手を執って「二国の好を結ぶ者は卿である」と言い、柳皇后と後主を迎えて天嘉三年、京師に至った。高宗が驃騎将軍であった当時、喜を府諮議参軍・中記室領として遇し、府朝の文翰はすべて喜の作であった。
  • 世祖がかつて高宗に「我が諸子はみな伯の字を用いるので、汝の子らは叔の字を用いるとよい」と語った際、高宗が喜に諮ると、喜は古の名賢杜叔英・虞叔卿ら二十余人を条牒して世祖に啓し、世祖はこれを称賛した。

高宗擁立と諫言

  • 世祖崩御後、廃帝は幼く高宗が録尚書事として輔政したが、僕射到仲挙らは朝望が高宗に帰することを察し、太后の令を矯めて高宗を東府へ帰そうとした。当時人々は疑懼し口を挟めなかったが、喜は高宗に馳せ入り「陳の天下は日浅く海内は未だ夷らかならず、国難が重なり万邦が危懼する中、太后が社稷の至計として王の入省を望まれるはずがない、今の言は太后の意ではない」と述べ、宗社の重を思案するよう促した。喜の進言どおり奏聞し、姦賊にその謀を肆にさせなかった。
  • 右衞将軍韓子高が到仲挙と通謀していた事がまだ発覚していない段階で、喜は高宗に「人馬を選び子高に配し、鉄炭を賜って器甲を修めさせるべきだ」と進言、高宗が「子高が謀反というなら直ちに収監すべきではないか」と驚くと、喜は「山陵始めて畢わり辺寇なお多い中、子高は前朝の委任を受け表向き恭順の名を負う。軽率に誅すれば時機を誤り王の威信を損なう恐れがある。推心をもって安んじ誘い、疑わせず、一壮士の力で図るべきだ」と答え、高宗は深くこれを是とし策を実行した。
  • 高宗即位後、給事黄門侍郎・中書舎人を兼ね軍国機密を掌った。高宗の北伐議に際し軍制十三条を撰し天下に頒布させた(文は多く未収録)。太子右衞率・右衞将軍に遷り、定策の功により東昌県侯・邑五百戸に封じられ、本官のまま江夏武陵桂陽三王府の国事を行った。太建三年、母の喪により去職、母庾氏に東昌国太夫人を追贈、布五百匹・銭三十万・喪事官給が下され、員外散騎常侍杜緬が墓田を図らせるなど、高宗の重用ぶりが窺えた。
  • 明威将軍・右衞舎人に復し、宣遠将軍・義興太守に改授、服喪明けに本号のまま御史中丞に入り、散騎常侍・五兵尚書を加え選事に参掌。北伐で淮南の地を得た際、喜が安辺の術を献じると高宗はこれを採り即日施行した。彭汴への進兵を高宗に問われた喜は「淮左は平定間もなく民は未だ安んぜず、周は斉を併呑し始めたばかりで争鋒しがたい。疲弊した兵で深入すれば、舟楫の利を捨て周の得意とする車騎の地に踏み込むことになり呉人には不利。安民保境・寝兵復約の後、時を見て動くのが久長の策だ」と諫めたが、高宗は従わず、のち呉明徹が周に陥ると高宗は喜に「卿の言は今日に験された」と語った。
  • 十二年、侍中を加え、十三年、散騎常侍・丹陽尹、吏部尚書・常侍そのまま。高宗崩御後、叔陵の反乱に際し中庶子陸瓊が勅を宣し南北諸軍を喜の処分に取らせた。賊平定後、侍中を加え封を増して并せて九百戸。至徳元年、信威将軍・永嘉内史・秩中二千石を授けられた。

疎外と晩年

  • 高宗は喜に政を委ね、喜も忠を尽くし諫諍がしばしば容れられたことで、十余年の間、江東は狭小ながら全盛と称された。ただ淮北の地への進軍だけは喜の諫を用いず呉明徹が敗れ、高宗は深くこれを悔い袁憲に「毛喜の計を用いなかったのは朕の過ちだ」と語った。喜はますます信任され言うところ回避しなかったため、皇太子(後主)が酒色を好み長夜の宴を催すたびに喜が高宗に諫めさせ、太子はこれを陰に患い次第に疎遠にされた。
  • 後主が始興王に傷つけられ癒えて後、後殿で酒宴を開き江総以下に賦詩させた際、喜を召したが、喜は山陵未だ一年を経ぬ時であることを憂え諫めようとしたところ、後主は既に酔っており、喜は階段で心疾を装って倒れ退出した。後主は醒めて疑い、江総に「私は毛喜を召したことを悔いる、その病は仮病で私の歓宴を阻もうとしたに過ぎない、姦詐だ」と語り、司馬申に「この者は気を負んでいる、鄱陽王兄弟に引き渡し報讐させたいがどうか」と諮った。申は「終には官に用いられぬ人物です、聖旨のままに」と答えたが、傅縡が「先皇(叔陵事件の被害者は後主自身だが、報讐を許せば先皇をどこに置くのか)」と争い諫めたため、後主は「小郡を与え人目に触れさせぬだけにせよ」とし、喜を永嘉内史とした。
  • 喜は郡に至り俸秩を受けず政は寛清、民吏はこれを便とした。豊州刺史章大宝が挙兵反した際、郡は豊州に接し備えがなかったが、喜は城隍を修治し器械を厳飭し、松陽令周磻に千兵を率いさせ建安を援けさせ、賊平定後、南安内史を授けられた。禎明元年、光禄大夫・左驍騎将軍に徴され、郡での善政により入朝の道中、送迎する者が数百里に及んだが、その年、道中で病に卒した。時に年七十二。文集十巻あり。子の処沖が嗣ぎ、儀同従事中郎・中書侍郎に至った。