陳書卷二十九 列傳第二十三 蔡徴

蔡徴、字は希祥、侍中蔡景暦の子。幼少より聡敏で知られ、後主に才幹を重んじられて吏部尚書・中書令を歴任した。ただし性は便佞で進取を好み物議を招き、禎明三年の陳滅亡後は隋に仕えたが用いられぬまま没した(年六十七)。

年表(2件)
  • 至徳二年廷尉卿に遷る
  • 禎明三年隋軍済江に際し中領軍を権知し防戦に努めるが、まもなく陳が滅ぶ

出自と早熟

  • 蔡徴、字は希祥、侍中・中撫軍将軍景暦の子。幼くして聡敏で記憶力に優れ、六歳で梁吏部尚書河南の褚翔(字は仲挙)を訪ねその頴悟に感嘆された。七歳で母の喪に居て成人のように礼を尽くした。継母劉氏は性悍忌で徴に不当な態度を取ったが、徴の奉持はますます謹み、怨色を見せなかった。徴は元の名を覧といったが、景暦が王祥(孝行の故事で知られる)の性ありとして名を徴、字を希祥と改めさせた。
  • 梁承聖初め、高宗が南徐州刺史となった際に迎主簿に召され、太学博士を授けられた。天嘉初め、始興王府法曹行参軍、外兵参軍・尚書主客郎を歴任、いずれも幹理をもって称された。

昇進と失脚

  • 太建初め、太子少傅丞から新安王主簿・通直散騎侍郎・晋安王功曹史・太子中舎人・東宮領直中舎人を歴任。父の喪により去職、服喪明けに新豊県侯を襲封、戎昭将軍・鎮右新安王諮議参軍。至徳二年、廷尉卿に遷り、のち吏部郎、太子中庶子・中書舎人となり詔誥を掌り、左民尚書、僕射江総とともに五礼撰定を知り寧遠将軍を加えられた。
  • 後主はその才幹を器とし任寄を日々重んじ、吏部尚書・安右将軍に遷り、十日に一度東宮に赴き太子の前で古今の得喪・当時の政務を論じた。また廷尉寺の獄事は大小問わず徴の議決に取らせるとの勅も下った。まもなく徴に兵士募集・自らの部曲編成を命ずる勅が出、徴は撫恤に長け旬月の間に衆はほぼ一万に達した。徴は位望・声勢ともに盛んで、物議はこれを忌憚した。
  • 中書令に転じ将軍はそのまま、中令として清簡で事無かったが、あるいは徴に怨言ありと後主に聞こえ、後主大いに怒り人馬を収奪し誅そうとしたが、固く諫める者があり免れた。禎明三年、隋軍済江、後主は徴の幹用により中領軍を権知させ、日夜勤苦し尽力した。後主は「事が定まれば必ず報いる」と語り、鍾山南崗の決戦に際し宮城西北の大営を守らせ、のち衆軍の戦を督させたが、城陥落に伴い恒例により入関した。
  • 徴は容儀美しく口辯に富み、士流・官宦・皇家戚属や当朝の制度・憲章・儀軌・戸口風俗・山川土地に至るまで問われて答えられぬことがなかった。ただし性は便佞で進取をよくし退素をもって業とすることができなかった。かつて吏部尚書拝任の折、後主に鼓吹を借りたいと啓したところ、後主は側近に「鼓吹は軍楽の功に授けるもの、蔡徴は自らを量らず朝章を紊す」と語ったが、父景暦の締構の功に免じて啓のとおり許され、拝任後すぐ取り戻された。徴の廉隅を修めぬ様はこの類であった。
  • 隋文帝はその敏贍を聞き召見して顧問すると答えは意にかない、しかし長らく調用されず、太常丞、のち尚書民部儀曹郎、給事に転じ、時に卒した。時に年六十七。子の翼は尚書に仕え司徒属・徳教学士に至り、隋では東宮学士となった。

史論

  • 宗元饒は夙夜怠らず務めを済し時に益した。司馬申は清廉で朝にあって苦をもって行いを立て、忠節をもってこれに加え美とすべき人物であった。毛喜は事機に深く達し時主を匡賛した。蔡徴は聡敏で才贍に富みながら権を擅にして自ら躓いた、惜しむべきことである。