陳書卷二十 列傳第十四 到仲舉

到仲挙、字は徳言。彭城武原の人。文帝と深く結び侍中・尚書令などを歴任した重臣。文帝崩御後、高宗との対立から謀反の疑いで捕らえられ、光大元年、子の到郁と共に獄中で死を賜った(時に年五十一)。

年表(9件)

出自と文帝との縁

  • 到仲挙、字は徳言。彭城武原の人。祖父の到坦は斉の中書侍郎、父の到洽は梁の侍中。仲挙に特別な才芸はなかったが、身の処し方は剛直であった。著作佐郎から太子舎人・王府主簿を経て、長城令として廉平の評を得た。
  • 文帝が郷里にいた頃、仲挙のもとを訪ねた際、雨天の中で城外に簫鼓の音が聞こえ、まもなく文帝が到着したことから、仲挙はこれを異とし深く結びついた。また文帝が仲挙の帳に宿った夜、五色の神光が室内を照らしたという逸話があり、以後仕えることをいっそう恭しくした。

出仕から尚書令へ

  • 侯景の乱では文帝に従い、乱平定後、文帝が呉興郡守となると仲挙は郡丞として、潁川の庾持とともに文帝の賓客となった。文帝が宣毅将軍となると長史とし、山陰令を兼ねさせた。文帝嗣位後、侍中を授けられ選事を掌り、天嘉元年、都官尚書を守り、宝安県侯・食邑五百戸に封ぜられた。
  • 三年に都官尚書に任じ、同年尚書右僕射・丹陽尹に遷り選事の兼掌はそのまま。のち建昌県侯に改封された。仲挙には学術がなく朝章には長じなかったため、選挙の実務は袁樞に委ねられ、自らは疎放で世務に関わらず、財を集め酒に耽ることが多かった。六年に丹陽尹の任を解かれた。
  • 文帝が長年病に伏し政務を親しく執らなくなると、尚書の事務の多くは仲挙が決した。天康元年、侍中・尚書僕射に遷り選事の兼掌はそのまま。文帝の病が重くなると医薬に侍した。

高宗との対立と最期

  • 文帝崩御後、高宗(安成王)が遺詔により尚書令として入輔したが、仲挙は左丞の王暹・中書舎人の劉師知・殷不佞らとともに、朝望が高宗にあるべきだとして、不佞を遣わし偽って高宗を東府へ帰らせる旨を宣した。事が発覚すると師知は獄に下され死を賜り、暹・不佞も処罰された。仲挙は貞毅将軍・金紫光禄大夫に落とされた。
  • 当初、仲挙の子の到郁は文帝の妹の信義長公主を娶り中書侍郎から宣城太守となり、文帝は士馬を配していた。この年、南康内史に遷るはずが国喪により赴任しなかった。仲挙は廃されて私宅に居り、郁とともに不安を抱いていた。
  • 当時、韓子高が都で人馬を擁し勢いが盛んであったため、郁はしばしば小輿に乗り婦人の衣を着て子高のもとに通い謀議していたが、子高の軍主がこれを密告した。高宗は子高・仲挙・郁をともに廷尉に付し、詔して仲挙父子の罪状(前朝での寵栄をかさに驕り、韓子高と結んで陰謀を企てたこと等)を糾弾し、廷尉に付して刑を正させた。ただし罪は仲挙父子と子高の三人にとどめ、その他は問わないとした。
  • 仲挙と郁はともに獄中で死を賜った。時に仲挙は年五十一。郁の子女は帝の甥にあたるため罪を免れた。