陳書卷十九 列傳第十三 馬樞

出自と学識

  • 馬樞、字は要理。扶風郿の人。祖父の馬霊慶は斉の竟陵王の録事参軍。
  • 樞は幼くして父母を失い、姑に養われた。六歳で孝経・論語・老子を暗誦し、成長すると経史を広く極め、仏教経典・周易・老子義に通じた。
  • 梁の邵陵王蕭綸が南徐州刺史となった際、樞の名を聞いて学士に招いた。綸が自ら文品経を講じる際、樞に維摩・老子・周易を同日に講じさせたところ、道俗の聴衆二千人が集まった。綸は諸家の学者に問答を挑ませたが、樞は次々に的確に答え、宗旨を明らかにし議論を尽くした。綸はこれを大いに称賛し、朝廷への推挙を考えた。

侯景の乱後の隠遁

  • 侯景の乱に際し、綸は挙兵し台城救援に赴く際、二万巻の書を樞に託した。樞はこれをほぼ読み尽くし、「爵位を貴ぶ者は巣父・許由を桎梏とし、山林を愛する者は伊尹・呂尚を管庫とみなす」という趣旨の感懐を述べ、隠棲の志を固め、茅山に隠れた。
  • 天嘉元年、文帝が度支尚書に徴したが応じなかった。当時、樞の親戚は京口に住み、秋冬には時折訪れていた。鄱陽王が南徐州刺史となり樞の高潔さを敬慕したが、招くことができず、卑辞厚意をもって使者を何度も送った。樞は病と称して固辞したが、門人の勧めで応じ、王が新たに室を築いて住まわせようとしたが、樞はその華美を嫌い竹林の間に自ら茅屋を営んで住んだ。王公からの贈り物は十分の一のみ受け取った。

晩年

  • 樞は乱世を経て、その住む所には盗賊が入らず、身を寄せる者は常に数百家に及んだ。目は洞のように鋭く暗闇でも物を見分けたという。庭の樹に白燕のつがいが巣を作り馴れ親しみ、春に来て秋に去ることおよそ三十年続いた。
  • 太建十三年に没した。時に年六十。『道覚論』二十巻を著し世に行われた。

史論

  • 沈烱は梁において天命の年(五十歳)に至るまで官位は低かったが、盟壇の文や表・勧進の文をものすると、その文才は際立ち、当代随一の文人と評された。虞荔の献策は誠実で慎重を極め、その時代に益するところが大きかったと評される。