陳書卷十九 列傳第十三 虞荔

虞荔、字は山披。会稽餘姚の人。幼くして聡敏の誉れ高く、文帝に重んじられ大著作等を務めた文臣。天嘉二年、五十九歳で没した(諡徳)。弟の虞寄は閩中で陳寳應に諫言を尽くし、後に帰朝して国子博士等を歴任、太建十一年に七十歳で没した。

年表(14件)

出自と才知

  • 虞荔、字は山披。会稽餘姚の人。祖父の虞権は梁の廷尉卿・永嘉太守、父の虞檢は平北始興王の諮議参軍。
  • 荔は幼くして聡敏で志操があり、九歳のとき従伯の虞闡に伴われ太常の陸倕を訪ねた際、五経について十の問いを立てられてすべて即答し、陸倕を驚かせた。また徴士の何胤を訪ねた折、時の太守衡陽王も同席し、王が荔を召そうとしたが、荔は正式の招請なしに拝謁できないと辞退した。王はその高い志を敬い、郡に戻ると主簿に召したが、荔は年少を理由にまた辞退した。
  • 成長すると容姿・見識に優れ、書を博く読み文に長じた。

出仕から侯景の乱

  • 梁の西中郎行参軍から出仕し、法曹外兵参軍・丹陽詔獄正を兼ねた。梁武帝が城西に士林館を置いた際、荔が碑文を作って奏上し、館に刻ませ、士林学士に任じられた。のち司文郎、通直散騎常侍を経て中書舎人を兼ねた。当時、左右の側近は権勢に関わることが多かったが、荔は顧協とともに淡泊に控えめに振る舞い、文史をもって知られ、当時「清白」と称された。大著作を領した。
  • 侯景の乱に際し、荔は親族を率いて台城に入り、鎮西諮議参軍・舎人はそのままとした。台城陥落後、郷里に逃げ帰った。侯景平定後、元帝は中書侍郎に徴したが応じず、貞陽侯も揚州別駕を授けたが就かなかった。

文帝との関係と晩年

  • 張彪が会稽に拠った際、荔はそこにいた。文帝が彪を平定すると、高祖は荔に書を送り、賢才を広く求めているので隠棲すべきではないと促した。文帝も重ねて書を送り、出仕を勧めた。荔はやむを得ず応命して都に至った。
  • 高祖崩御後、文帝が嗣位すると太子中庶子に任じ太子の読書に侍させ、のち大著作・東揚揚州二州大中正・庶子をそのまま兼ねさせた。当初、荔の母は荔とともに台城に入り、その中で没した。城が陥落したため喪を尽くせなかったことを悔い、荔は終身、蔬食・粗末な衣で通し音楽を聞かなかった。任遇は重かったが居所は倹素で、無欲であった。文帝はこれを重んじ常に側に置いて相談した。荔は寡黙で慎重、進言の内容は他人に漏らさなかった。
  • 弟の虞寄が閩中にあり陳宝応のもとに身を寄せていたため、荔はこれを話すたびに涙を流した。文帝は自分にも遠方の弟がいるとしてこれに同情し、陳宝応に虞寄を返すよう勅したが、宝応は最後まで応じず、荔はこれにより発病した。文帝はたびたび見舞い、荔を宮中に住まわせようとしたが、荔は禁中が私居にふさわしくないとして城外での滞在を願い、蘭台に住まわせられた。文帝の使者がたびたび見舞い、蔬食を続ける荔を案じて魚肉を給するよう勅したが、荔は最後まで従わなかった。
  • 天嘉二年に没した。時に年五十九。文帝は深く惜しみ、侍中を贈り、諡は徳。柩が郷里に還る際、帝自ら見送り、当時栄誉とされた。子の世基・世南はともに若くして名を知られた。

虞寄――才知と出仕辞退

  • 虞寄、字は次安。幼くして聡敏で、幼少の頃、父を訪ねた客に「虞という姓は必ず愚かだろう」とからかわれ、即座に「文字も弁えぬ者こそ愚かではないか」と切り返し、客を驚かせた逸話がある。
  • 成長して学を好み文に長じ、性格は落ち着いて隠遁の志を持った。弱冠で秀才に挙げられ対策で高第となり、梁の宣城王国左常侍から起家した。大同年間、殿前にしばしば異色の宝珠を伴う雨が降った際、寄は瑞雨頌を上ったところ、梁武帝は兄の荔に「これは卿の家の士龍(陸雲になぞらえた賛辞)だ」と称賛した。寄はこれを聞いて「盛徳の形容を称えただけで、名を買って仕官を求めるものではない」と辞し、門を閉ざして病と称し、書籍のみを娯しみとした。

虞寄――閩中での歳月と陳宝応への諫言

  • 岳陽王が会稽太守となった際、行参軍として招かれ、記室参軍・郡五官掾を歴任、簡略を旨とし煩雑を避けた。侯景の乱に際し兄の荔とともに台城に入り、鎮南湘東王諮議参軍・貞威将軍を加えられたが、京城陥落後郷里に逃げ帰った。張彪が臨川へ向かう際、彊いて寄を同行させようとし、寄は同乗した鄭諱が彪の意に逆らったため、共に晋安へ拉致された。当時、陳宝応が閩中に拠っており、寄を得て喜んだ。
  • 高祖が侯景を平定すると、寄は宝応に帰順を勧めて承聖元年、和戎将軍・中書侍郎に除せられたが、宝応は寄の才を惜しんで道路の険阻を口実に赴任させなかった。宝応が寄を僚属に引き入れ文翰を委ねようとするたびに、寄は固辞して免れた。
  • 宝応が留異と婚を結び逆謀を企てると、寄は密かにその意を知り、話の折々に順逆の理を説いて諷諫したが、宝応は他の話に逸らして拒んだ。また左右に漢書を朗誦させ、蒯通が韓信に語る「相君之背、貴不可言」の一節に至ると宝応は喜んで「智士だ」と言ったが、寄は「酈食其を覆し韓信を驕らせたことは称するに足らない。班彪が天命の帰趨を見抜いたことにこそ及ばない」と諫めた。
  • 寄は宝応を諫止できないと悟り、禍が身に及ぶことを恐れて居士の服装をし、東山寺に住み脚疾と偽って起きなかった。宝応が仮病と疑って寄の臥室に火を放たせたが、寄は動じず、近侍が助け出そうとすると「命に定めがあるなら逃げてどこへ行くのか」と言い、火を放った者はかえって自ら消し止めた。以後、宝応は寄を信ずるようになった。
  • 留異が挙兵し宝応がこれに部曲を提供しようとした際、寄は書を極めて諫めた(東山虞寄より宝応への長文の上諫。趣旨は、天下の情勢・陳氏の天命・宝応自身の地位と恩義を説き、挙兵の不利と朝廷帰順の利を十箇条にわたり論じ、早期の帰順を勧めるもの。詳細な逐語引用は略す)。
  • 宝応は書を見て激怒したが、側近が「虞公は病が篤く言に誤りが多い」ととりなし、また寄の民望も考慮してこれを許した。宝応が敗走し夜蒲田に至った際、子の扞秦に「早く虞公の計に従っていれば今日に至らなかった」と語ったという。宝応が捕らわれると、賓客で関わりのあった者はみな誅されたが、寄だけは先見の明により禍を免れた。
  • 沙門の慧摽が宝応の挙兵に際し送別の五言詩を作ったが、寄はこれを一覧して黙し何も言わず、のち慧摽は事に連座して誅された。寄は「慧摽は詩をもって始まり、詩をもって終わるだろう」と側近に語っていたという。

虞寄――帰朝後

  • 文帝は都督章昭達に命じて寄を朝廷に送り返させ、到着するとすぐ引見し「管寧も無事だったか」と慰労した。文帝は到仲挙に、衡陽王の輔佐役として学識と徳行のある者を求めていたが、仲挙が答えられずにいたところ「私が自ら得た」と手勅して寄を用いた。
  • 寄は文帝に呼ばれ「暫く卿を藩に屈させたのは文翰のためだけでなく師表として仕えさせるためだ」と告げられた。散騎常侍を兼ね斉への使いを命じられたが老病を理由に辞退し、国子博士に除せられた。のち解職・帰郷を願い出て許され、東揚州別駕に任じられたがまた病を理由に辞退した。
  • 高宗即位後、揚州治中・尚書左丞に徴されたがいずれも就かず、東中郎建安王諮議・戎昭将軍に除せられたがまた病を理由に辞退し、王府の公事に列することを免除され、疑義があれば決を仰ぐのみとされた。太建八年、太中大夫将軍を加えられ、十一年に没した。時に年七十。
  • 寄は若い頃から篤実な行いに厳しく、召使いにすら声を荒げることはなかったが、危急に臨むと厳然として刃をも恐れなかった。南方に流寓していた間、兄の荔と隔絶していたため気鬱の病を得、荔からの手紙が届くたびに病状が悪化した。歴任の官はいずれも任期を全うせず、数か月で辞任を求め「足るを知れば辱められない」と語った。病により官を辞して以後、諸王が州将として赴任するたびに門前で礼を尽くした。近隣の寺や里を出遊すると老幼が並んで拝礼したという。著した文筆の多くは戦乱で失われた。