陳書卷二十 列傳第十四 韓子髙
韓子高、会稽山陰の人。微賤の出だが文帝に見出され近侍し、成長して将帥として杜龕・張彪・留異・晋安平定などで戦功を重ねた。文帝没後は兵権の重さを不安視されて疎まれ、光大元年、謀反の疑いで到仲挙と共に死を賜った(時に年三十)。
文帝への近侍
- 韓子高、会稽山陰の人。家柄は微賤であった。侯景の乱の際、京都に寓居していたが、乱平定後、文帝が呉興郡守として出た際、子高は十六歳、総角で容貌美しく婦人のようであった。淮渚で部伍に紛れ乗船して帰郷しようとしていたところを文帝に見出され、「私に仕えられるか」と問われ承諾した。子高は本名を蛮子といったが、文帝がこれを改名した。
- 性格は恭謹で、常に文帝の護身刀と酒肴の給仕を務め、文帝の急な気性によく応じた。成長すると騎射に習熟し、胆力を見せ将帥となることを望んだ。杜龕平定の功により士卒を配され、文帝は深く寵愛し常に側から離さなかった。文帝が険しい山道を馬で登り落ちそうになる夢を見た際、子高が支えて登った夢を見たという。
戦功と信任
- 文帝が張彪を討った際、沈泰らが先に降り、文帝は州城を得たが、周文育が北鄴の香厳寺に鎮していたところ、張彪が剡県から夜襲した。文帝が北門から出て混乱の中、子高だけが側にあり、文帝は子高を乱兵の中から遣わして文育に事態を伝えさせ、また諸軍を慰労させた。文帝の兵が集まると子高は文育の陣営へ案内し、共に柵を築いた。翌日彪と戦い、彪の将申縉が再び降り、彪は松山へ逃げ、浙東が平定された。
- 文帝は麾下の兵を多く子高に分け与えた。子高もまた財を軽んじ士を礼遇し、帰属する者が多かった。文帝嗣位後、右軍将軍に除せられ、天嘉元年、文招県子・食邑三百戸に封ぜられた。王琳が柵口に至った際、子高は台内を宿衛し、王琳平定後は統率する将士がさらに増え、子高は帰属者を尽力して推挙し文帝はいずれも任用した。
- 二年、員外散騎常侍・壮武将軍・成州刺史に遷った。留異討伐の際、侯安都に従い桃支嶺の巌下に頓し、子高の兵は精鋭で別営を率い、単騎で陣に入り傷を負いながらも功を挙げた。留異平定後、仮節・貞毅将軍・東陽太守に除せられた。五年、章昭達らが臨川から晋安を征した際、子高は安泉嶺から建安で合流、諸将中最も兵馬が盛んで、晋安平定の功により通直散騎常侍に遷り伯に進爵、食邑を合わせて四百戸とされた。
- 六年、右衛将軍に徴され都に至り領軍府に鎮した。文帝が病に伏すと医薬に侍し、廃帝即位後は散騎常侍・右衛はそのまま、新安寺に移り頓した。高宗が輔政に入ると、子高は兵権が過重であることを深く不安に思い、しばしば台閣を訪ね、また衡州・広州など外鎮への転出を求めた。
最期
- 光大元年八月、前上虞県令の陸昉と子高の軍主がその謀反を告発した。高宗は尚書省で文武百官を召し皇太子の擁立を議していたところ、子高もその場にいたが、平旦に省に入りこれを捕らえて廷尉に送った。その夕、到仲挙とともに死を賜った。時に年三十。父の延慶と子弟は罪を免れた。延慶は子高の寵により給事中・山陰令に至った。