儀礼への精通と高祖・世祖への出仕
- 劉師知、沛國相の人。家世は素族。祖の劉奚之は齊の晉安王諮議參軍・淮南太守で能政あり齊武帝の手詔で頻りに褒賞された。父の劉景彦は梁尚書左丞・司農卿。師知は学を好み当世の才あり、書史を渉猟し文筆に工み臺閣の故事に詳しかった。梁世は王府參軍を歴任、紹泰初、高祖入輔にあたり中書舎人・詔誥掌となる。兵乱後で礼儀が多く欠けていたため、高祖の丞相就任・九錫加授・受禪の儀注はみな師知が定めた。高祖受命後も舎人となり、性は疎簡で人と多く忤らったが位遇は変わらず、多くの献策は皆弘益あった。
高祖崩御時の成服儀礼論争
- 高祖崩御後、六日目の成服にあたり、大行皇帝の霊座を俠御する人の吉凶服制について、博士沈文阿は吉服を主張したが師知は「成服は喪礼を備えるもので霊筵の服物は皆縞素とすべき」とし、梁の昭明太子薨去の先例を引き縗絰を主張、中書舎人蔡景歴も同意、中書舎人江徳藻・謝岐も師知の議に同じた。文阿は重ねて晉宋の山陵儀を検し「靈輿は吉、梓宮は凶と二部に分かれる」と反論、左丞徐陵の裁断を仰いだところ、陵は文阿の議に同じた。
- 師知は再反論し、王文憲の喪服明記等を引き俠御は縗服とすべきと主張、謝岐は「靈筵祔宗廟・梓宮祔山陵は左丞の議の通りだが、それは山陵の儀であって成服とは関わらない」とし、蔡景歴・劉徳藻も各々議を述べたが決せず、徐陵は老病を理由に多くを語らず沈黙を保った。文阿はなお自説を執り、決せられぬまま八座・詹事・太常・中丞・中庶(袁樞・張種・周弘正・周弘讓・沈烱・孔奐ら)に諮った結果、梁昭明太子の成服儀注を準拠とし、成服日の侍官は吉礼に従うべきでなく葬礼の吉鹵簿は山陵の時に限り成服の日には関わらないとする師知の議が採られた。
起居注編纂と死
- 尋いで鴻臚卿・舎人如故。天嘉元年、事に坐し免官。世祖は師知に起居注撰述を勅し、永定二年秋から天嘉元年冬までの十巻を撰した。中書舎人に起用され復た詔誥を掌る。天康元年、世祖不豫のとき師知は尚書僕射到仲舉らと医薬に侍り、世祖崩後は顧命を受けた。髙宗が尚書令として入輔すると、光大元年、師知は到仲舉らと共に舎人殷不佞を遣し矯詔で髙宗を東府へ還そうとしたが事が北獄で発覚し賜死された。