陳書卷十六 列傳第十 蔡景歴
蔡景歴、字は茂世。濟陽考城の人。文才に優れ高祖に重用され中書舎人として詔誥を掌った。高祖崩後の秘喪を計り世祖擁立に尽力した功臣。太建期に一時失脚するも復帰し、六十歳で没した(諡忠敬)。
年表(13件)
- 侯景の乱南康嗣王蕭會理と挟出を謀り捕らえられるが賊党王偉に保護され免れる
- 侯景平定後高祖に招かれ征北府中記室參軍となる
- 高祖受禪後袐書監・中書通事舎人として詔誥を掌る
- 永定二年妻弟の罪に坐し中書侍郎に降格される
- 永定三年高祖崩後、秘喪を計り世祖を召還する
- 世祖即位後袐書監・舎人に復し新豐縣子に封ぜられる
- 天嘉三年太子左衞率に進み侯に進爵する
- 天嘉六年妻兄の罪に坐し免官となる
- 太建五年呉明徹の北伐を諫めて高祖の怒りを買い豫章内史に出される
- 赴任前贓汚を劾せられ免官・爵土削減となり會稽に徙居する
- 呉明徹の敗北後追還され度支尚書に入る
- 拝命の年その歳、疾で卒す。時に年六十。諡は敬
- 禎明二年侍中・中撫將軍・諡忠敬を重贈され墓所に碑を立てられる
高祖への上書と重用
- 蔡景歴、字は茂世。濟陽考城の人。祖の蔡點は梁尚書左民侍郎、父の蔡大同は輕車岳陽王記室參軍で京邑の選を掌った。景歴は俊爽で孝行、家貧しく学を好み尺牘・草隷に善く海陽令として能名を得た。侯景の乱で梁簡文帝が幽閉されると南康嗣王蕭會理と挟出を謀り事泄れ捕らえられたが賊党王偉に保護され免れ、京口に客遊。侯景平定後、高祖が朱方に鎮すると景歴を招き、答書は筆を止めず文を改めず作られた。高祖は書を大いに賞し、征北府中記室參軍・記室に任じ、衡陽獻王が年若く呉興郡を治める際は景歴に輔佐させた。
- 承聖中、通直散騎侍郎・府記室掌。高祖の王僧辯討伐は矦安都らのみに謀り景歴は与り知らなかったが、檄文起草を命ぜられると援筆立成、辞義感激で意にかなった。僧辯誅殺後、従事中郎・記室掌如故。紹泰元年、給事黄門侍郎・兼掌相府記室。高祖受禪後、袐書監・中書通事舎人・詔誥掌。永定二年、妻弟劉淹が周の寶安の餉馬を詐受した事に坐し、御史中丞沈烱の劾により中書侍郎に降格(舎人如故)。
高祖崩後の秘喪と世祖の下での栄枯
- 永定三年、高祖崩後、外に強寇あり世祖は南晥に鎮し朝に重臣なく、宣后は景歴・江大權・杜稜を呼び秘喪を議し疾く世祖を召還した。景歴は宦者・内人と密かに斂服を営み、暑熱のため梓宮の斤斧の音が外に漏れるのを恐れ蠟で祕器を作り、文書詔誥は旧に依り宣行した。世祖即位後、袐書監・舎人如故、定策の功で新豐縣子(邑四百戸)。累遷して散騎常侍。世祖の矦安都誅殺は景歴が成就に勧めた。天嘉三年、功により太子左衞率、侯に進爵(增邑百戸)、常侍・舎人如故。六年、妻兄劉洽が景歴の権勢に依り姦訛を働き歐陽武威から絹百匹を受けた事に坐し免官。
- 廢帝即位後、鎭東鄱陽王諮議參軍・兼太府卿に起用。華晈反乱で武勝將軍・呉明徹軍司となり皎平定後、明徹が軍中で安成内史楊文通を戮し降人の馬仗を不分明に受けた事で景歴も匡正できなかった罪に坐し収付されたが、久しくして宥されまた鎭東鄱陽王諮議參軍に起用された。髙宗即位後、宣惠豫章王長史・帶會稽郡守・行東揚州府事、任期満了後、戎昭將軍・宣義長沙王長史・尋陽太守・行江州府事(疾により辞し赴任せず)。通直散騎常侍・中書通事舎人・詔誥掌に入り封邑を復し太子左衞率・常侍舎人如故に遷る。
太建期の失脚と復帰
- 太建五年、都督呉明徹の北伐で周将梁士彦を呂梁で大破、彭城進図を図る中、高祖は河南平定に鋭意し景歴は「師老將驕、遠略を過ごすべきでない」と諫めたが高祖は怒った。旧臣として深く罪せられなかったが宣遠將軍・豫章内史に出され、赴任前に飛章で劾せられ贓汚狼藉として帝は有司に按問させ、景歴は半分のみ承めた。御史中丞宗元饒は「士たる者忠を尽くし廉を持すべきに、宣遠將軍・豫章内史新豐縣開國侯の景歴は多幸により興王の運に豫り締構に参ったが、天嘉の世に贓賄狼藉、聖恩により録用され更に鳴裂壤崇階を許されたにもかかわらず改節せず専擅貪汙が遠近に彰著したのは甚だしい」と奏し、免官・鴻臚に下し爵土削減を請い、詔許可、會稽に徙居した。
- 呉明徹の敗北後、帝は景歴の前言を思い出し即日追還、征南鄱陽王諮議參軍とし、数日で員外散騎常侍・兼御史中丞・本封爵復に遷り、度支尚書に入る。旧式では拝官は午後だが、景歴拝日は輿駕が玄武観に幸し在位皆侍宴する時にあたり、帝は景歴が拝命に間に合わないことを恐れ特に早拝させたほど重んじられた。その歳、疾で卒した。時に年六十。太常卿を贈られ諡は敬。十三年、改葬し中領軍を重贈。禎明元年、高祖廟庭に配享。二年、輿駕が親しくその宅に幸し、侍中・中撫將軍を重贈、諡は忠敬、鼓吹一部を給し墓所に碑を立てた。景歴の文は雕靡を尚ばず叙事に長じ、時に称され文集三十巻がある。