陳書卷九 列傳第三 歐陽頠

出自と嶺南での経歴

  • 歐陽頠、字は靖世。長沙臨湘の人で郡の豪族。祖父景達は梁代の本州治中、父僧寳は屯騎校尉。頠は質直で思慮があり、言行の篤信で嶺表に聞こえた。父の喪では毁瘠甚だしく、家産を悉く諸兄に譲り、州郡に招かれても応ぜず麓山寺の傍らに廬して経史を修めた。三十歳で兄に強いられ出仕。
  • 梁の左衞將軍蘭欽と親しく、欽の南征に従い衡州・清逺太守となる。欽が陳文徹を破り銅鼓など獻上した戦功に頠も与った。天門太守として蠻左討伐にも功あり、廬陵王蕭續に賓客として招かれた。欽の交州征討に随行し、欽が嶺を度えて疾で終わると臨賀内史となった。
  • 湘衡の境の五十餘洞が服さぬため衡州刺史韋粲が討伐、粲は頠を都督として悉く平定させ、梁武帝から褒賞を受け超武將軍を加えられた。

侯景の乱と嶺南平定

  • 侯景の乱で広衡二州の山賊征討にあたり衡州を監したが、高祖(陳霸先)が始興に至ると頠はこれに深く結託。蘭欽の弟裕が頠を攻めたが高祖の援けで裕は敗れた。頠は始興内史に遷り、高祖の蔡路養・李遷仕討伐に功があった。
  • 梁元帝の承制で東衡州刺史・新豐縣伯(邑四百戸)。侯景平定後、元帝は歐陽頠を「公正で匡濟の才あり」と評したが蕭勃が手放さず、後に衡州刺史・始興縣侯となった。蕭勃が広州で兵権を強め、元帝が王琳を代わりの刺史として派遣すると、勃はこれを避け始興に部下を移し、頠は別に城を構え謁せず。勃は怒って頠を襲い資財を奪ったが、後に赦し盟を結び直した。
  • 荆州陥落後、頠は勃に質を送ったが、勃が南康に出ると頠は前軍都督として苦竹灘に頓し、周文育に破られ高祖に送られた。高祖はこれを釈放し厚遇。蕭勃の死後、嶺南が乱れると頠は衡州刺史となり、子の歐陽紇が既に始興を平定していたため、頠が嶺南に至ると諸勢力は皆服し、広州に進んで越地を尽く有した。都督廣交越成定明新髙合羅愛建徳宜黄利安石雙の十九州諸軍事・鎭南將軍・平越中郎將・廣州刺史となる。
  • 王琳が中流に拠る間も頠は海道・東嶺から使を絶やさなかった。世祖嗣位後、征南將軍・陽山郡公(邑一千五百戸)に進む。交州刺史袁曇緩が金五百兩を頠に密かに寄せていたが、頠は蕭勃に破られ資財を失っても寄託の金だけは残しており、曇緩の死後にすべて返還した。人々はその信を重んじる姿勢に感嘆した。頠の弟盛は交州刺史、次弟邃は衡州刺史となり一門は南土に名を振るった。天嘉四年、薨。時に年六十六。侍中・車騎大將軍・司空・廣州刺史を贈られ、諡は穆。子の歐陽紇が嗣いだ。

歐陽紇――反乱と誅殺

  • 歐陽紇、字は奉聖。幹略あり、天嘉中に黄門侍郎・員外散騎常侍を経て安遠將軍・衡州刺史・陽山郡公を襲封、都督交廣等十九州諸軍事・廣州刺史となり十餘年、威惠が百越に著れた。
  • 光大中、上流の藩鎮が多く貳心を懐くなか、高宗は紇が久しく南方にいることを疑い、太建元年に左衞將軍として召還を詔した。紇は徴に応ぜず部下に勧められて挙兵し、衡州刺史錢道戢を攻めたが、道戢の告変により儀同章昭達が討伐、屢戦の末に兵敗し捕らえられ京師に送られ誅された。時に年三十三。家口は籍没されたが、子の詢は幼少ゆえ免れた。