陳書卷九 列傳第三 矦瑱
矦瑱、字は伯玉。巴西充國の人。西蜀の酋豪の子で、父の仇を討って名を知られた。梁末の混乱の中で豫章・侯景陣営を経て梁の義軍に合流し、のち陳の高祖に帰順して王琳討伐で活躍した。天嘉二年、疾により還朝を求める途上で病没した。
出自と蜀での挙兵
- 矦瑱、字は伯玉。巴西充國の人。父の矦𢎞遠は西蜀の酋豪であった。
- 蜀の賊・張文蕚が白崖山に拠り衆一萬を擁したため、梁の益州刺史・鄱陽王蕭範が𢎞遠に討伐を命じたが、𢎞遠は戦死した。矦瑱は復讐を固く願い出て、常に先鋒として陣を陥し、ついに文蕚を斬って名を知られた。
- 蕭範に仕え、輕車府中兵參軍・晉康太守などを歴任。範が雍州刺史に移ると超武將軍・馮翊太守となり、範が鎭合肥に遷ると従った。
侯景の乱から梁末の各地転戦
- 侯景が臺城を圍むと、範は矦瑱に世子蕭嗣を輔けさせ京邑救援に赴かせたが、京城陥落後は嗣とともに合肥へ退いた。範・嗣が相次いで卒すると、瑱はその衆を領して豫章太守莊鐵に依った。
- 莊鐵に疑われた瑱は逆に鐵を誅して豫章の地を有したが、侯景の将・于慶に攻められ窮して降った。慶は瑱を景に送り、景は瑱と同姓であることから宗族として厚遇し、瑱の妻子・弟を質として留めた。
- 景の敗北後、瑱は景の党与を誅して義軍に応じ、景も瑱の弟と妻子を皆誅した。梁元帝は瑱を武臣將軍・南兖州刺史・郫縣侯(邑一千戸)に任じ、都督王僧辯に従って景を討ち、常に前鋒を務めた。景が呉郡に奔ると僧辯の命で追撃し、呉松江で大破、さらに錢塘に進んで景の将・謝答仁や呂子榮らを降した。功により南豫州刺史となり姑熟に鎮した。
- 承聖二年、齊の郭元建が濡須から出撃すると、僧辯の命で瑱は甲士三千を率い東關に塁を築いてこれを防ぎ、元建を大破。使持節鎭北將軍・鼓吹一部を加えられ、邑二千戸を増された。
- 西魏が荆州に来寇した際、僧辯は瑱を前軍として赴援させたが、至らぬうちに荆州は陥落。瑱は九江から晉安王を衛って還都し、承制により侍中・使持節都督江晉呉齊四州諸軍事・江州刺史・康樂縣公(邑五千戸)・車騎將軍を加えられた。司徒陸法和が郢州に拠り齊兵を引き入れると瑱に討伐を命じたが、法和は北に逃れて齊に入り、齊の慕容恃徳が夏首に鎮したため、瑱はこれを控引して恃徳を食糧尽きさせ講和させた。
高祖(陳霸先)の下で王琳と戦う
- 瑱は豫章に還鎮した後、僧辯の弟僧愔と共に蕭勃を討った。高祖が僧辯を誅すると僧愔は瑱の軍を奪おうとしたが、瑱はその党を収めて僧愔を齊へ奔らせた。紹泰二年、開府儀同三司を加えられたが、内心では王僧辯に恩義を感じ入朝の意はなかった。
- 豫章太守余孝頃と対立し、瑱は従弟の矦奫に後事を任せて孝頃を攻めさせたが克てず、長く包囲した末、奫の部下・侯方兒が謀反して瑱の軍府の妓妾・金玉を掠め高祖に帰順。瑱は根本を失って豫章に還るも拒まれ、湓城で焦僧度を頼った。僧度は齊への投降を勧めたが、瑱は高祖の度量を信じて自ら罪を請い、爵位を復された。
- 永定元年に侍中・車騎將軍。二年、司空に進む。王琳が沌口に至り周文育・矦安都らが敗れると、瑱は都督西討諸軍事として梁山に至った。世祖即位後は太尉・增邑千戸となり、栅口に至った王琳と対峙した瑱は矦安都らを統べたが、百餘日決着せず。
- 天嘉元年二月、東關の春水が長じ王琳の水軍が合肥・漅湖から下ると、瑱は獸檻洲に進んだ。夕刻東北風が起き琳の舟艦は多く壊れ溺死者数十百人を出し、夜には流星が賊営に墜ちた。西魏の史寧が上流から迫るなか、琳は蕪湖十里手前まで下ったが、齊の援兵数萬が加わり梁山へ向かおうとした。
- 瑱は軍中に朝食を早めさせ搥・盪の二軍を蕪湖洲尾に分け伏せて待った。定州刺史章昭達が平虜大艦で拍を放って賊艦を撃ち、牛皮で覆った蒙衝小船で突撃し鎔鐵を灑いだため、琳軍は大敗。歩兵は自ら蹂躙し合い、馬騎は蘆荻に沈み、免れた者は十のうち二三に過ぎず、齊将劉伯球・慕容子會を生け捕り、俘馘は萬を数えた。琳はわずかな者と齊へ入った。
- その年、瑱は都督湘巴郢江呉等五州諸軍事となり湓城に鎮した。周将賀若敦・獨孤盛らが巴湘に寇すると西討都督として西江口で盛の軍を大破。功により湘州刺史・零陵郡公(邑七千戸)に改封。天嘉二年、疾により還朝を求め、三月道中で薨じた。時に年五十二。侍中・驃騎大將軍・大司馬を贈られ、諡は壮肅。子の矦淨藏が嗣ぎ、世祖の第二女富陽公主を尚した。淨藏は太建三年に卒し、子がなく弟の子が襲封した。