陳書卷九 列傳第三 吳明徹
吳明徹、字は通昭。秦郡の人。幼くして孤となり至孝で知られ、陳の名将として太建の北伐を主導した。壽陽を陥落させるなど大きな戦果を挙げたが、太建九年の呂梁の戦いで周軍に敗れて捕らえられ、長安で憂憤のうちに没した。
出自と孝行
- 吳明徹、字は通昭。秦郡の人。祖景安は齊の南譙太守、父樹は梁の右軍將軍。明徹は幼くして孤となり至孝、十四歳の時に墳塋が未整備なのを憂え、日照りで苗が枯れると田で号泣し天に訴えた。数日後、苗が生き返ったとの知らせを疑い自ら見に行くと事実であり、秋に大いに収穫して葬儀の費用に充てた。占相の伊氏は「この墓に白馬に乗り鹿を追う者が来れば最も年少の孝子が大貴する」と予言し、後にその通りとなった。
梁末の転戦から高祖への帰順
- 梁の東宮直後として出仕。侯景の乱で天下大乱の折、明徹は粟麥三千餘斛を持ちながら隣里の飢餧を見て兄たちに説き、口数に応じて等しく分け与え、多くの命を救った。高祖が京口に鎮すると明徹は自ら詣でて厚遇され、当世の務めを論じた。周弘正に学び天文・遁甲にも通じた。
- 承聖三年、戎昭將軍・安州刺史。紹泰初め、周文育に従い杜龕・張彪らを討ち東道平定に功、安東將軍・南兖州刺史・安呉縣侯となる。高祖受禪後は安南將軍。侯安都・周文育らと王琳討伐に赴くが敗れ、自ら退いて京師に戻った。世祖即位後、右衞將軍を加えられ、王琳敗北後は武州刺史となる。
周迪・華晈討伐と北伐の功
- 周が賀若敦を送って武陵を襲うと衆寡不敵で巴陵に退き、周の別軍を雙林で破った。天嘉三年、安西將軍。周迪が臨川で反すると江州刺史として討伐にあたるが、統治が厳しく世祖は安成王頊を遣って鎮撫させた。五年、吳興太守。丹陽尹を経て廢帝の擁立に加わり、高宗の疑懼に対し毛喜を通じ「殿下は伊尹・霍光に比すべき徳を持つ、疑いを持たれるな」と説いた。
- 湘州刺史華晈が異志を懐くと、明徹は都督湘桂武三州諸軍事・湘州刺史として淳于量らと討伐、晈平定後に開府儀同三司・公に進む。太建元年、鎭南將軍。四年、侍中・鎭前將軍。北伐の議で明徹が策を決し出征を請う。五年、都督征討諸軍事として十餘萬の大軍を率い京師を発し、秦郡・仁州を次々に克ち、南平郡公に進む。
- 峽石の二城を平げ壽陽に迫ると、齊の王琳が守る城を夜襲で潰走させ、明徹は水攻めのため肥水を迮いだが、齊の援軍(皮景和、数十萬)が壽春に近づいても進まぬため、明徹は「速さこそ利」と一気に城を攻め、壽陽を陥落。王琳・王貴顯・可朱渾孝裕・盧潛・李騊駼らを生け捕り、旧部下が慕う王琳を叛乱の芽と見て密かに殺しその首を伝えた。功により車騎大將軍・豫州刺史・増封三千五百戸。
- 六年に入朝、七年に彭城を攻め呂梁で齊の援兵を大破。八年司空。九年、周が齊を滅ぼすと北伐を続け呂梁で周の梁士彦を頻破、清水を迮いで城を灌いだが、周の王軌が船路を遮断。裴子烈の献策で馬軍を先に退かせ、明徹自ら堰を決して撤退を図るも清口で水勢が衰え舟艦は渡れず全軍潰滅、自身も捕らえられ、憂憤のうちに長安で卒した。時に年六十七。
- 至徳元年、後主は「李陵・于禁も及ばぬ用兵の才」と称え邵陵縣開國侯(邑一千戸)を追封し、子の惠覺に嗣がせた。惠覺は黄門侍郎を経て豐州刺史となった。
- 兄の子・矦超、字は逸世。幹略を以て名あり、明徹の征伐に従い戦功、忠毅將軍・散騎常侍・桂州刺史・汝南縣侯となり、卒後廣州刺史・諡は節を贈られた。
裴子烈――附伝
- 裴子烈、字は大士。河東聞喜の人で、梁員外散騎常侍裴猗の子。梁末の喪乱に孤となり驍勇を以て聞こえ、常に明徹に従って征討し先登陥陣、電威將軍・北譙太守・岳陽内史・海安縣伯(邑五百戸)に至り、至徳四年に卒した。
史論
- 史臣曰く、高祖は乱を撥め基を創め天暦を光啓した。矦瑱と歐陽頠はともに道に帰順し位は鼎司に貴んで美事であった。吳明徹は将帥の任にあって初め軍功があったが、呂梁の敗績はその失策であった。その勇は韓信・白起に及ばず識は孫子・呉子に異なり、ついに国境を蹙め軍を喪い、金陵の虚弱と禎明の淪覆はその兆しであったとする。