陳書卷八 列傳第二 侯安都
侯安都、字は成師。始興曲江の人。隷書・琴・五言詩をよくし騎射にも優れた文武兼備の将で、陳霸先(高祖)の王僧辯襲撃を単独で謀に与り成功させ、高祖崩御時には世祖の擁立を主導した腹心。のち驕慢となり文武の士を招き集めて権勢を誇ったため世祖に疎まれ、謀反の疑いで賜死された。
侯安都
- 侯安都、字は成師、始興曲江の人。代々郡の著姓であった。父の文捍は若くして州郡に仕え忠謹をもって称せられ、安都が貴顕となった後、官は光禄大夫・始興内史(秩中二千石)に至った。安都は隷書を能くし琴を弾じ、書伝を渉猟し五言詩を作りその文は清靡であった。あわせて騎射も善くし邑里の雄豪であった。梁の始興内史蕭子範は主簿に招いた。侯景の乱で兵を招集し三千人に至り、高祖が京師救援に赴くと、安都は兵を率いて高祖に従い蔡路養を攻め李遷仕を破り侯景の平定に力戦し功を立て、梁の元帝から猛烈将軍・通直散騎常侍・富川県子(食邑三百戸)を授けられた。高祖に従い京口を鎮すると蘭陵太守に除された。高祖が王僧辯を襲おうと謀った際、諸将で知る者はなく、ただ安都とだけ計を定め、安都に水軍を率いさせ京口より石頭へ向かわせ、高祖自らは馬歩軍を率い江乗・羅落から合流した。安都は石頭の北に至り舟を棄てて岸に登り、僧辯はこれに気づかなかった。石頭城の北は丘陵に接し城壁もさほど険しくなく、安都は甲を被り長刀を帯び軍人に担ぎ上げられ女垣(城壁の低い部分)の内に投げ入れられ、衆もこれに続いて城内に入り僧辯の寝室に迫った。高祖の大軍も到着し僧辯と庁前で戦い、安都は内閤から出て腹背から攻撃し、ついに僧辯を捕らえた。紹泰元年、功により使持節・散騎常侍・都督南徐州諸軍事・仁威将軍・南徐州刺史を授けられた。高祖が杜龕を東討する際、安都は台を留守し、徐嗣徽・任約らが斉の寇を引き入れて石頭に拠り遊騎が闕下に至ると、安都は門を閉じ旗幟を伏せて弱く見せかけ、城中に「陴に登り賊を見る者は斬る」と令した。夕方、賊が兵を収めて石頭に戻ると、安都は夜のうちに密かに防具を営み、明け方賊騎がまた至ると甲士三百人を率い東西の掖門を開いて戦いこれを大いに破り、賊は退いて石頭に戻り二度と台城に迫らなかった。高祖が到着すると安都を水軍とし川の中流で賊の糧運を断ち、また秦郡を襲い嗣徽の柵を破りその家口・馬驢・輜重を収め、嗣徽が弾いていた琵琶と飼っていた鷹を得て使者を遣わし「昨日弟(嗣徽)の住処でこれを得たので、今お返しする」と餉り、嗣徽らはこれを見て大いに恐れ、まもなく和を請うたため高祖はその北帰を許した。嗣徽らが渡江すると、斉の残軍がなお采石に拠り守備が厳重であったが、また安都に攻めさせ多くを捕虜とした。翌春、詔して安都に兵を率いさせ梁山を鎮させ斉に備えたが、徐嗣徽らがまた丹陽に入り湖熟に至ったため高祖は安都を呼び戻し馬歩軍を率いて高橋で防がせ、また耕壇の南で戦い、安都は十二騎でその陣に突入しこれを破り、斉の儀同乞伏無勞を生擒、また斉将東方老を刺して落馬させたが、賊騎が救援に来て老は逃れた。賊は北へ蔣山を渡り、安都はまた斉将王敬寳と龍尾で戦い、従弟の軍主張曉に陣を突かせたところ曉は槍に当たり落馬、張纂がこれをかばって死んだため、安都は駆けつけて曉を救い、その騎士十一人を斬りその遺骸を取り戻した。斉軍はもはや迫ることができなかった。高祖が斉軍と莫府山で戦った際、安都に歩騎千余人を率いさせ白下からその背後を横撃させると斉軍は大敗、安都はさらに追撃し摂山に至り俘獲は数え切れなかった。功により侯の爵に進み食邑五百戸を加増、鼓吹一部を給される。さらに平南将軍に進号し西江県公に改封、水軍を都督し豫章へ出て豫州刺史周文育を助け蕭勃を討った。安都が至らぬうちに文育はすでに勃を斬りその将欧陽頠・傅泰らを捕らえていたが、ただ余孝頃と勃の子孜がなお豫章の石頭に両城を築き、孝頃と孜が各々一つに拠り、多くの船艦を並べ川を挟んで陣していた。安都が至ると銜枚(音を立てぬ工夫)して夜にその艦を焼いた。文育が水軍を率い、安都が歩騎を率いて岸に登り布陣すると、孝頃はまもなく退路を断とうとしたが、安都は軍士に松木を多く伐らせ柵を立て陣営を並べて漸進、頻戦してしばしば勝ち、孜はついに降伏。孝頃は新呉へ逃げ帰り子を人質に入れることを請い、これを許した。師が還ると功により鎮北将軍に進号し開府儀同三司を加えられ、武昌で軍を会し周文育とともに西の王琳を討った。出発に際し王公以下が新林で餞したが、安都は馬を躍らせて橋を渡り人馬ともに水中に落ち、また船の中で艪井に落ちたため、当時これを不祥とした。武昌に至ると琳の将樊猛は城を棄てて逃げ、文育もまた豫章から至ったが、両将はともに行動しながら統属関係がなく、部下同士の争いにより次第に不和となった。軍が郢州に至ると琳の将潘純陁が城中から遠く官軍を射たため、安都は怒って進軍し包囲したが克ちきれず、王琳が弇口に至ると安都は郢州の囲みを解いてすべての兵を沌口へ向かわせこれを防いだが、風に遭い進めず、琳は東岸に、官軍は西岸に拠り数日対峙して合戦、安都らは敗績した。安都は周文育・徐敬成とともに琳に捕らえられ、琳は一本の長鎖で三人を繋ぎ船の中に置き、側近の宦者王子晉に見張らせた。琳が湓城の白水浦に下ったとき、安都らは甘言を弄し子晉に厚い賂を約束すると、子晉は偽って小船で船に依りつつ釣りをするふりをし、夜のうちに安都・文育・敬成を岸へ運び、三人は深草の中に入り歩いて官軍に投じ都に帰った。安都は自ら罪を訴えたが、詔してすべて赦し官爵を復した。まもなく丹陽尹となり、出て都督南豫州諸軍事・鎮西将軍・南豫州刺史となり、周文育に続いて余孝勱および王琳の将曹慶・常衆愛らを攻めさせられた。安都は宮亭湖から松門に出て衆愛の背後を追い、文育が熊曇朗に害されると安都は引き返して大艦を取り、琳の将周炅・周恊が南帰するのに遭遇しこれと戦い破り、炅・恊を生擒した。孝勱の弟孝猷は部下四千家を率いて王琳に就こうとしたが、炅・恊が敗れたのを見て安都に降った。安都はさらに禽奇洲に進軍し曹慶・常衆愛らを破りその船艦を焼き、衆愛は廬山に逃れ村人に殺され、残党はことごとく平定された。軍が南皖に還ったとき高祖が崩じ、安都は世祖に従い朝に帰り、群臣とともに世祖を推戴する議を定めた。当時世祖は謙譲して敢えて位に就こうとせず、太后もまた衡陽王(陳昌)の存在ゆえに令を下すことを肯んじず、群臣は逡巡して決しかねていた。安都は「今四方はまだ定まらず遠慮している暇はない。臨川王(世祖)は功があり天下がともに立てるべきだ。今日のことに後から異を唱える者は斬る」と言い、剣を按じ殿に上がって太后に璽を出させ、自ら世祖の髪を解いて喪次に就かせた。世祖の即位により司空に遷り、なお都督南徐州諸軍事・征北将軍・南徐州刺史とされ扶(儀仗)を給された。王琳が柵口に至ると大軍は蕪湖に出屯したが、当時侯瑱が大都督で指麾・経略の多くは安都から出た。天嘉元年、食邑千戸を加増。王琳が敗れて斉に逃げ入ると、安都は軍を進めて湓城で琳の残党を討ち向かうところ皆下し、また別に中旨を奉じて衡陽献王昌を迎えた。当初、昌がまさに帰還しようとした際、世祖に書を送ったがその辞は甚だ不遜であり、世祖は不快に思い安都を召して「太子(陳昌)がまもなく至る。私は別に藩国を求めて老いるほかあるまい」と告げると、安都は「古来、代わりを受けた天子がありましょうか。臣は愚かにも詔を奉じられません」と答え、自ら昌を出迎えることを願い出た。昌は漢水を渡ったところで薨じた。功により清遠郡公(食邑四千戸)に爵を進め、これより威名は甚だ重く群臣の中に彼に並ぶ者はなかった。安都の父文捍は始興内史として官に卒し、世祖は安都を京師に召し還して喪を発させ、まもなく本官のまま起復し、その父に散騎常侍・金紫光禄大夫を追贈し、その母を清遠国太夫人に拝し都に迎えようとしたが、母は郷里に留まることを固く求めた。上は詔して桂陽の汝城県を廬陽郡に改め、衡州の始興・安遠二郡を割いて合わせ三郡で東衡州とし、安都の従弟曉を刺史とした。安都の第三子秘は年九歳で、上はこれを始興内史とし郷里に留まり母(安都の母)に侍養させた。その年、安都は桂陽郡公に改封された。王琳の敗北後、北周の兵が巴湘に入り拠ったため安都は詔を奉じ西討し、留異が東陽に拠るとまた詔を奉じ東討した。異は台軍が銭塘江を遡ってくるものと考えていたが、安都は陸路を会稽の諸暨から永康へ出たため、異は大いに恐れ桃枝嶺へ逃れ嶺谷の間に立て籠もり岩口に柵を立てて官軍を防いだ。安都は連城を築いて異を攻め、自ら接戦し流矢に当たり血が踝まで流れたが、輿に乗って軍を指揮しその容止は変わらなかった。山陵の勢を利用して堰を築き、天嘉三年夏、大雨で水がみなぎると安都は船を堰の中に引き入れ楼艦を建て、異の城の高さに合わせてこれを拍(大石を投じる兵器)で破壊しその楼と雉堞を砕いた。異と第二子忠臣は身一つで晋安へ逃げ、安都はその妻子を虜にし人馬甲仗をことごとく収め、軍を整えて凱旋した。功により侍中・征北大将軍に加えられ食邑を合わせて五千戸に増され、なお本鎮に戻った。その年、吏民が闕に詣で安都の功績を頌える碑を立てることを請い、詔してこれを許した。王琳の平定以降、安都の勲功はますます大きくなり、自ら社稷を安んじた功を誇るようになり次第に驕矜となり、しばしば文武の士を招き集め、あるいは弓馬を試みさせ馳騁させ、あるいは詩賦を作らせその優劣に応じて賞賜を差別した。文士としては褚介・馬樞・陰鏗・張正見・徐伯陽・劉删・祖孫登、武士としては蕭摩訶・裴子烈らが皆その賓客となり、斎内は動くと千人に及んだ。部下の将帥には法度に従わぬ者が多く、これを検問し捕らえようとすると安都のもとへ逃げ込んだ。世祖は性格が厳しく察するところがあり深くこれを憎んだが、安都は改めず日ごとに驕横となった。表啓を封じたのちに述べ足りないことがあると自ら封を開いて書き加え「また某事を啓す」と言い、侍宴で酒がまわると箕踞(あぐら)して傾き寄りかかるほどであった。かつて楽遊苑の禊飲に陪した際、帝に「臨川王であった頃と比べていかがですか」と問い、帝が答えないでいると再三これを言い、帝はついに「これは天命によるとはいえ、明公(安都)の力もある」と答えた。宴が終わると安都はさらに供帳・水飾を借り妻妾を御堂に載せて歓会したいと啓し、世祖はその請いを許したものの甚だ不快であった。翌日、安都は御座に座り賓客を群臣の位に置き杯を挙げて上寿の礼を行った。当初、重雲殿が火災に遭った際、安都は将士を率い甲を帯びたまま殿に入り、帝はこれを甚だ悪んで、以後密かに備えをするようになった。また周迪の反乱に際し朝望は安都に討伐させるべきだと見ていたが、帝は呉明徹に迪を討たせ、たびたび台使を遣わして安都の部下を調べ亡命者・叛徒を検括させた。安都は内心不安を覚え、三年冬、別駕周弘実を舎人蔡景歴のもとへ遣わし取り入らせ省中の事を尋ねさせたが、景歴はその様子を記録し詳しく上奏し、帝の意を迎えて安都が謀反していると称した。世祖は安都が制御に従わないことを恐れ、翌春、安都を都督江呉二州諸軍事・征南大将軍・江州刺史に任じた。安都は京口から都に戻り部隊を石頭に入れると、世祖は安都を招いて嘉徳殿で宴し、また部下の将帥を尚書朝堂に集め、その席で安都を捕らえ嘉徳西省に囚え、また将帥たちも捕らえて馬・武具をすべて奪ったのちに釈放した。そのうえで舎人蔡景歴の上表を朝廷に示し、詔して次のように述べた――昔、漢が功臣を厚遇して韓信・彭越の乱の端緒を開き、晋は蕃牧を頼みとして龐萌に六尺の孤(幼帝)を託し野心が密かに発した先例があり、また霍禹(漢の霍光の子)に股肱を寄せて凶謀が潜んで構えられたことなど、往代を追惟するに逆謀の理は一つであり、古来患難は同じ轍を踏むものだと。侯安都は素より遠謀に乏しく令徳を欠いていたが、幸いにも興運に遇い経綸に与り、行間から抜擢され偏師の帥に推され馳逐を委ねられ、位は三槐(三公)を極め任は四嶽に居し、名器は隆盛で礼数もこれに並ぶ者はなかった。しかし志はただ己を誇ることのみにあり、気は人を陵ぐことにあり、逋逃(逃亡者)を招き集め軽狡を窮め、無頼無行にして畏れも恭しさもなく、脤(軍令)を受け専征する際は掠奪をほしいままにし、鎮する所では収奪してやまず、徐蕃(南徐州)に寄って斉境に接すると禁制の貨物を貿易し、住民を殺して財を発掘し毒は泉壌に及んだ。目に余る所業で人を殺し、常法を顧みなかった。朕は初め国を締構した際、安都には功績が著しく、飛驂して代邸(藩邸)へ嘉謀に与ったため、有司に淹抑させ常にこれを遵養しようと願い、百官もこれを望んで日々自新を期待していたが、話言に款襟(誠意)を推し量り造次に丹赤(真心)を推し量っても、なお甲第に策馬し羽林の警を息め酒宴を高堂に置くほどの驕りがあり、陛戟(護衛)もなく片時も嫌疑を隠さなかったが、朕は柏人を去り宿らず、猜防を協えて成臯に入っても留まらぬがごとく、なお隠忍していた。しかし勃戾(不遜)は改まらず驕暴はますます甚だしくなり、文武を招誘し密かに異図を懐いた。去年十二月十一日、中書舎人蔡景歴が啓し、侯安都が先月十日に別駕周弘実を遣わし景歴の私邸に密かに訪ねさせ禁中のことを尋ね、反計を具に陳べたと知った。朕はなお隠忍しこれを初めのように待遇したが、北門から遷って南服(江州)に赴任するにあたり、命を受けて留まる間に姦謀はますます露わになった。今、初鎮に赴くのに乗じて不軌を為そうとした。これが忍べるならば何が忍べぬというのか。社稷の霊と近侍の誠慤に頼り醜情は暴かれ逆節は明らかとなった。外に詳しく旧典に照らして速やかに刑を正すべきであるが、同謀の者のみを問い、他は一切問わない、と。翌日、西省で死を賜った。時に年四十四。まもなく詔してその妻子・家口を宥し、士の礼をもって葬らせ喪事に必要な物を厚く給した。かつて高祖が京城にあり諸将と宴した際、杜僧明・周文育・侯安都が寿を献じてそれぞれの功伐を称えると、高祖は「卿らは皆良将であるが、それぞれに短所がある。杜公は志が大きいが識見に暗く、下には狎れながら上には驕り、功を誇って拙を収めない。周侯は交わる人を選ばず心を推し量りすぎ、危険を歩みながら猜防を設けない。侯郎は傲誕で満足を知らず軽佻で意のままに振る舞う。いずれも身を全うする道ではない」と言い、三人はついに皆その言葉通りになった。安都の長子敦は年十二で員外散騎侍郎となったが、天嘉二年、落馬して卒し桂陽国愍世子と追諡された。太建三年、高宗は安都を陳集県侯(食邑五百戸)に追封し、子の亶が嗣いだ。安都の従弟曉は安都に従い征討を重ねて功があり、官は員外散騎常侍・明威将軍・東衡州刺史・懐化県侯(食邑五百戸)に至り、天嘉三年、卒す。時に年四十一。
史論
- 史臣曰く。杜僧明・周文育はともに功業を樹て興運のうちに成し遂げ、頗牧(廉頗・李牧)・韓彭(韓信・彭越)に連なるといってよい。侯安都は当初の心情とは異なり権勢は往時を超え、これによって侵暴を重ね放縦・誕妄を加えた。もし逆乱の企てがなかったとしても、滅亡を免れられたであろうか。昔、漢の高祖が韓信を醢にし、宋の武帝が謝晦らを座右で誅したのも、そうなるだけの理由があってのことなのである。