陳書卷八 列傳第二 周文育
周文育、字は景徳。義興陽羨の人。幼くして孤貧の出自から陳霸先(高祖)配下の武将となり、各地の平定・侯景討伐で功を立てた古参の功臣。豫章内史熊曇朗の裏切りにより討たれ、時に五十一歳。
年表(1件)
- 天嘉二年高祖廟庭に配享される
周文育
- 周文育、字は景徳、義興陽羨の人。幼くして孤貧、本は新安寿昌県に住み姓は項氏、名は猛奴といった。十一歳で水中を数里泳ぎ、高さ五、六尺を跳ぶことができ、群児と遊んでも及ぶ者がなかった。義興の人周薈が寿昌浦口の戍主となり、これを見て奇とし召して語らったところ、文育は「母は老い家は貧しく、兄姉も皆長じて賦役に困窮している」と答えた。薈はこれを哀れみ、文育とともにその家へ赴き、母に文育を養子に望むと、母はこれを許した。薈が任期を終えて文育とともに都に還り、太子詹事周捨に名字を請うと、捨は文育・字は景徳と名づけた。薈は甥の弘譲に文育の読み書き・算術を学ばせようとし、弘譲は隷書を善くし蔡邕の「勧学」や古詩を写して文育に贈ったが、文育はこれを見ようとせず「誰がこれを学んで富貴を得られようか、大槊さえあればよい」と言った。弘譲はその豪気を壮とし騎射を教えると文育は大いに喜んだ。司州刺史陳慶之は薈と同郡で常々親しく、薈を前軍軍主に挙げ、慶之は薈に五百人を率いさせ新蔡の懸瓠へ赴かせ白水蛮を慰労させたが、蛮は薈を捕らえて魏に入れようと謀り、事が発覚し薈は文育とともにこれを防いだ。賊は甚だ盛んで一日に数十合の戦いとなり、文育は前鋒として陣を陥れ勇は軍中に冠絶したが、薈は陣中で戦死し、文育は駆けてその遺体を取り返し、賊も夕方には各々兵を引いた。文育は身に九創を受けたが、傷が癒えると帰葬を願い出て、慶之はその節を壮として厚く贈遺し送り出した。葬儀の後、盧安興が南江督護となると文育を同行させ、たびたび俚獠を征して功を立て南海令に除された。安興が死ぬと文育は杜僧明とともに広州を攻めたが高祖に敗れ、高祖はこれを赦した(詳細は僧明伝にある)。のち監州王勱が文育を長流令に任じ深く信任した。勱が交代となり文育がともに南下しようとし大庾嶺で卜者に占わせたところ「あなたは北へ下れば令長どまりだが、南へ入れば公侯となる」と告げられ、文育は「銭さえ足りれば十分、誰が公侯を望もうか」と答えると、卜者は「あなたは間もなく突然銀二千両を得るだろう、信じないならこれを験としなさい」と言った。その夜、旅籠に宿ると商人が博打を持ちかけ、文育はこれに勝って銀二千両を得た。翌朝、勱に別れを告げようとしたところ理由を問われ、文育は事情を話し、勱はそこで彼を行かせた。高祖は高要にあって彼が戻ったことを聞き大いに喜び、人を遣わして迎え厚く賞賜し、麾下の兵を分けて配した。高祖の侯景討伐に際し、文育は杜僧明とともに前軍となり、蘭裕を破り欧陽頠を援けるなど功を立てた。高祖が蔡路養を南野で破った戦いでは、文育は路養に四面数重に包囲され矢石雨のごとく降る中、乗馬を失いながらも右手で戦い左手で鞍を解いて包囲を突破し、杜僧明らと合流し力を併せてまた進撃、ついに大いにこれを破った。高祖は文育を府司馬に表挙した。李遷仕が大皋に拠り、その将杜平虜を贛石魚梁に遣わして築城させると、高祖は文育に命じてこれを撃たせ、平虜は城を棄てて逃走、文育がその城に拠った。遷仕は平虜の敗北を聞き老弱を大皋に留め精鋭を選んで自ら文育を攻め、その勢いは鋭く軍中はこれを恐れたが、文育は戦い遷仕はやや退き対峙が続いた。高祖が杜僧明を援軍として遣わし別に遷仕の水軍を破ると、遷仕の衆は潰え大皋を通らず直ちに新淦へ逃げた。梁の元帝は文育に仮節・雄信将軍・義州刺史を授けた。遷仕がまた劉孝尚と謀り義軍を拒もうとすると、高祖は文育に侯安都・杜僧明・徐度・杜稜とともに白口に築城させ防がせた。文育はしばしば出撃してついに遷仕を捕らえた。高祖が南康を発し文育に兵五千を率いさせ江路を開通させると、侯景の将王伯醜が豫章に拠っていたのを文育は撃退しその城を占拠した。累次の功により游騎将軍・員外散騎常侍に除され東遷県侯(食邑五百戸)に封ぜられた。高祖の軍が白茅湾に至ると、文育と杜僧明を常に軍鋒とし、平南陵・鵲頭の諸城を平定、姑孰に至り景の将侯子鑒と戦いこれを破った。景の平定により通直散騎常侍を授けられ南移県侯(食邑一千戸)に改封、信義太守を拝し、南丹陽・蘭陵・晋陵太守、智武将軍・散騎常侍を歴任した。高祖が王僧辯を誅すと、文育は諸軍を督して吳興で世祖と会し杜龕を包囲してこれを破り、さらに長江を渡って会稽太守張彪を襲いその郡城を得た。世祖が彪に襲われた際、文育は城北の香厳寺に屯していたが、世祖が夜にそこへ趨くと共に柵を立てて守り、まもなく彪がまた攻めてきたが文育は力を尽くして苦戦しこれを克服せず、ついに彪を破り平定した。高祖は侯瑱が温州に拠っているのを文育に討たせ、都督南豫州諸軍事・武威将軍・南豫州刺史に任じ、兵を率いて湓城を襲わせたが未だ克たぬうちに、徐嗣徽が斉の寇を引き入れて長江を渡り蕪湖に拠ったため、詔して文育を京師へ召還した。嗣徽らは青墩から七磯にかけて艦を並べ文育の帰路を断とうとしたが、夕方文育は鼓噪して出発、嗣徽らはこれを制しきれず、朝になると逆に嗣徽を攻めた。嗣徽の驍将鮑砰が小艦一隻で殿軍していたが、文育は単身舴艋に乗じ戦いを挑みその艦に跳び入り砰を斬って艦を牽いて還り、賊衆は大いに驚いた。そこで船を蕪湖に留め丹陽から陸路を進んだ。当時高祖は白城で嗣徽を防いでおり、ちょうど文育と合流し戦おうとしたところ風が強く、高祖が「兵は風に逆らわず」と言うと文育は「事は急を要す、古法にこだわってどうする」と言い、槊を抜いて馬に乗り進み、諸軍もこれに従うと、風もまもなく転じ、数百人を殺傷した。嗣徽らが莫府山に陣を移すと文育もこれに対して陣を移し、頻戦して功が最も大きく平西将軍に加えられ、壽昌県公に爵を進め鼓吹一部を給された。広州刺史蕭勃が挙兵し嶺を越えて来ると、詔して文育を諸軍の督とし討伐させた。当時新呉洞主余孝頃も挙兵し勃に応じ、弟の孝勱に郡城を守らせ自らは豫章へ出て石頭に拠った。勃は子の孜に兵を率いさせ孝頃と会させ、また別将欧陽頠を苦竹灘に、傅泰を墌口城に屯させて官軍を防がせた。官軍は船が少なく、孝頃は舴艋三百艘・艦百余艘を上牢に有していたため、文育は軍主焦僧度・羊東に命じて密かに軍を進めこれを襲い悉く奪って帰り、豫章に柵を立てた。当時官軍は食糧が尽き皆退却を望んだが文育は許さず、人を密かに送って周迪に書を遣わし義兄弟の約を結び利害を陳べた。迪は書を得て喜び糧餉を送ることを約束した。そこで文育は老小を分けて古船に乗せ流れに沿って下らせ、豫章郡の柵を焼いて偽って退くと見せかけ、孝頃はこれを望んで大いに喜び備えを解いた。文育は間道を通り昼夜兼行で芊韶に達した。芊韶の上流には欧陽頠・蕭勃、下流には傅泰・余孝頃がいたが、文育はその中間に城を築いて兵を饗し、賊徒は大いに驚いた。欧陽頠はそこで泥渓に退き城を築いて自守したが、文育は厳威将軍周鉄虎と長史陸山才を遣わしこれを襲い頠を捕らえ、盛大に兵甲を陳べ頠と舟を並べて宴し、傅泰の城下を巡って攻め、これを克した。蕭勃は南康で聞いて衆はみな股慄し自立できなくなり、その将譚世遠が勃を斬り降ろうとしたが人に害され、世遠の軍主夏侯明徹が勃の首を持って蕭孜に降った。余孝頃はなお石頭に拠っていたが、高祖は侯安都を遣わし文育を助けてこれを攻めさせ、孜は文育に降り、孝頃は新呉へ退走し広州は平定された。文育は豫章に還り屯し、功により鎮南将軍・開府儀同三司・都督江広衡交等州諸軍事・江州刺史に授けられた。王琳が上流に拠っていたとき、詔して侯安都を西道都督、文育を南道都督とし、武昌で会して王琳と沌口で戦ったが琳に捕らわれ、後に脱走して帰った(詳細は安都伝にある)。まもなく使持節・散騎常侍・鎮南将軍・開府儀同三司・壽昌県公を授けられ鼓吹一部を給される。周迪が余孝頃を破ると、孝頃の子公颺と弟孝勱がなお旧柵に拠って南土を扇動していたため、高祖はまた文育と周迪・黄法氍らに討伐させ、豫章内史熊曇朗もまた軍を率いて会し衆は一万に近づいた。文育は呉明徹を水軍とし周迪の配下とし、自らは陸路の諸軍を率いて象牙江に入り金口に城を築いた。公颺は五百人を率い偽って降り文育を捕らえようと謀ったが発覚し、文育はこれを囚え京師に送り、その部曲を諸軍に分属させた。文育は船を捨てて陸軍とし進んで三陂に拠った。王琳は将曹慶に兵二千を率いさせ孝勱を救わせ、慶は主帥常衆愛を分遣して文育と対峙させ、自らは率いる兵で周迪・呉明徹の軍を直撃、迪らは敗績、文育は退いて金口に拠った。熊曇朗はこの敗北に乗じて文育を害し衆愛に呼応しようと謀り、文育の監軍孫白象がこれを察知して先に手を打つよう勧めたが、文育は「いけない。我らは古参の兵が少なく客軍が多い。もし曇朗を討てば人々は驚き恐れ、離散はたちまち起こるだろう。心を推し量って撫めるに如くはない」と答えた。以前、周迪が敗れた際は船を棄てて逃げ行方は知れなかったが、迪からの書を得て文育は喜びこれを持って曇朗に見せると、曇朗はその座で文育を害した。時に年五十一。高祖はこれを聞き即日哀悼の礼を挙げ侍中・司空を贈り諡を忠愍とした。当初、文育が三陂に拠っていたとき、流星が地に墜ち雷のような音がして、地は方一丈にわたり陥没しその中に砕けた炭が数斗あった。また軍市で突然子供の泣き声が聞こえ、市中は皆驚いて聴いたが、それは地下にあり、軍人が掘ると長さ三尺の棺が出てきたという。文育はこれを不吉として忌み嫌ったが、まもなく迪が敗れ文育は殺された。天嘉二年、詔して高祖廟庭に配享された。子の寳安が嗣いだ。文育の本族の兄景曜は文育の縁で新安太守に至った。
周寳安(附伝)
- 寳安、字は安民。十余歳ですでに騎射を習ったが、貴公子として驕り気ままに遊び、狗馬を好み馳騁を楽しみ贅沢な衣食を好んだ。文育が晋陵にあり征討で忙しく郡に赴く暇がなかったため、寳安に郡事を監知させたが、悪少年を集めがちで高祖はこれを憂えた。文育が西征し敗れて王琳に繋がれると、寳安はにわかに節を改め読書し士君子と交わるようになり、文育の士卒を治めるにも威と恵をもってし甚だ人望を得た。員外散騎侍郎に除され、文育が帰ると再び貞威将軍・呉興太守に除された。文育が熊曇朗に害されると寳安は召還され猛烈将軍としてその旧兵を領し南討させられた。世祖の即位により深く器重され心腹の兵として精鋭・利兵を多く配され、王琳平定にも功があった。周迪が熊曇朗を破ると寳安は南に入りその残党を掃討した。天嘉二年、重ねて雄信将軍・呉興太守に除され壽昌県公の爵を襲封、三年、留異を征する際は侯安都の前軍となり、異平定により給事黄門侍郎・衛尉卿に除され、四年、持節都督南徐州諸軍事・貞毅将軍・南徐州刺史を授けられ、召還されて左衛将軍に加え信武将軍とされ、まもなく本官のまま衛尉卿を領し、さらに仁威将軍に進号した。天康元年、卒す。時に年二十九。侍中・左衛将軍を贈られ諡を成とした。子の䂮が嗣いだ。寳安の没後、䂮もまた偏将として欧陽紇征討・淮南平定に功があり江安県伯(食邑四百戸)に封ぜられ、晋陵・定遠二郡太守を歴任、太建九年、卒す。時に年二十四。電威将軍を贈られた。