陳書卷五 本紀第五 宣帝

高宗孝宣皇帝、諱は頊、字は紹世、小字は師利(528–582年)。始興昭烈王の第二子。江陵陥落後に北周へ抑留されたが帰国し、光大二年に廃帝を廃して即位した。太建の北伐で淮南の地を回復したが、呂梁での大敗により国力を損なった。

年表(14件)

出自と生い立ち

  • 高宗孝宣皇帝、諱は頊、字は紹世、小字は師利。始興昭烈王(陳道譚)の第二子。梁の大通二年七月辛酉(528年)に生まれ、生まれたとき堂室に赤い光が満ちたという。若くして大度と智略があり、成長すると容儀美しく、身長八尺三寸、手は膝を過ぎるほど長く、勇力があり騎射を善くした。高祖が侯景を平定し京口に鎮した際、梁の元帝が高祖の子姪を江陵に召したため、高祖は高宗を赴かせた。累進して直閤将軍・中書侍郎となる。当時馬軍主李総が高祖と旧知であったが、あるとき高宗が夜に酒に酔って寝ているところを李総が見ると、その体が大龍になっており、驚いて逃げ去ったという逸話が伝わる。江陵陥落後、高宗は関右(北周)に遷された。永定元年、遥かに始興郡王に封ぜられ食邑二千戸。三年、世祖の即位に伴い安成王に改封。天嘉三年、北周より帰還し侍中・中書監・中衛将軍に任ぜられ佐史を置かれる。ついで使持節都督揚南徐東揚南豫北江五州諸軍事・揚州刺史に任ぜられ驃騎将軍に進号。四年、開府儀同三司を加えられ、六年、司空に遷る。天康元年、尚書令を授けられ他の官はそのまま。廃帝即位に伴い司徒に拝され驃騎大将軍・録尚書事・都督中外諸軍事に進み班剣三十人を給される。光大二年正月、太傅・領司徒に進み殊礼を加えられ剣履上殿・食邑三千戸となる。十一月甲寅、慈訓太后の令により廃帝が臨海王に降され、高宗が皇位を継いだ。

太建元年(569年)――即位

  • 春正月甲午、太極前殿にて即位。詔して光大三年を太建元年と改め、大赦天下、在位の文武に位一階を賜い、孝悌力田および父の後を継ぐ者に爵一級を賜い、鰥寡孤独で自活できない者に穀五斛を賜う。太皇太后の尊号を復し皇太后とし、妃柳氏を皇后に、世子叔宝を皇太子に、皇子で南中郎将・江州刺史・康楽侯の叔陵を始興王として昭烈王の祀を奉じさせた。乙未、太廟に謁す。丁酉、大使を四方に分遣し風俗を観察させる。同日、章昭達を車騎大将軍、淳于量を征北大将軍、黄法氍を征西大将軍、呉明徹を鎮南将軍、鄱陽王伯山を中衛将軍に進号し、沈欽を尚書左僕射、王勱を尚書右僕射、沈恪を鎮南将軍・広州刺史とした。辛丑、南郊に親祀。壬寅、皇子叔英を宣恵将軍・東揚州刺史に任じ豊城侯から豫章王に改封、豊城侯叔堅を長沙王に改封。癸卯、周弘正を特進とし、戊午、太廟に親祀。二月庚午、皇后が太廟に謁し、辛未、皇太子も謁廟。乙亥、親耕籍田。夏五月甲午、斉の使者が来聘、丁巳、徐陵を尚書右僕射、沈君理を吏部尚書とする。秋七月辛卯、皇太子が沈氏を妃に納れ、王公以下に賜帛。丁酉、伯恭を中護軍・安南将軍に進号、九月甲辰、伯恭を中領軍に改める。冬十月、左衛将軍欧陽紇が広州で挙兵し反す。辛未、章昭達を車騎将軍に任じ討伐させる。壬午、太廟に親祀。

太建二年(570年)

  • 春正月乙酉、黄法氍を中権大将軍に進める。丙午、太廟に親祀。二月癸未、章昭達が欧陽紇を捕らえ建康に送り市に斬り、広州が平定された。三月丙申、皇太后が崩じ、丙午、広・衡二州の罪を曲赦、丁未、大赦天下。周迪・華皎討伐以来の戦死者を収斂して棺槥を給し本郷へ送り、傷病者には医薬を給する詔を出す。夏四月乙卯、臨海王伯宗(廃帝)が薨去。戊寅、皇太后を万安陵に袝葬。閏月己酉、太白(金星)が昼に現れる。五月乙卯、黄法氍が瑞璧一を献ず。壬午、斉の使者が弔問に来る。六月戊子、新羅が方物を献ず。辛夘、大雨雹。乙巳、大使を分遣し州郡を巡行させ冤罪を糾す。戊申、章昭達を車騎大将軍、沈恪を鎮南将軍に進号。秋八月甲申、帰化してきた民の課役免除・旧地回復を保障する詔、続けて賦役簡素化・田租の申告制度・軍士の放還(六十歳)・戸籍隠匿の是正等を命じる詔を出す。戊子、太白昼見。九月乙丑、杜稜を特進・護軍将軍とする。冬十月乙酉、太廟に親祀。十一月辛酉、高麗が方物を献ず。十二月癸巳の夜、西北に雷声あり。

太建三年(571年)

  • 春正月癸丑、徐陵を尚書僕射とする。辛酉、南郊に親祀、辛未、北郊に親祀。二月辛巳、明堂に親祀、丁酉、親耕籍田。三月丁丑、大赦天下。天康元年より太建元年までの逋残の軍糧・禄秩・夏調の未納分をすべて免除し、また逆賊に連座して他国へ逃亡した子弟親属の帰順を許し、拘留中の者は寛大に処し、没収された住宅も返還させる詔を出す。夏四月壬辰、斉の使者来聘。五月戊申、太白昼見。辛亥、遼東・新羅・丹丹・天竺・盤盤等の諸国が使者を遣わし方物を献ずる。六月丁亥、江陰王蕭季卿が罪により免ぜられ、甲辰、東中郎将・長沙王府諮議参軍蕭彝を江陰王に封ずる。秋八月辛丑、皇太子が太学で釈奠を行い、二傅・祭酒以下に賜帛。九月癸酉、太白昼見。冬十月甲申、太廟に親祀、乙酉、北周が来聘、己亥、丹丹国が方物を献ず。十二月壬辰、車騎大将軍司空章昭達が薨去。

太建四年(572年)

  • 春正月丙午、雲麾将軍・江州刺史・始興王叔陵を湘州刺史・平南将軍に、東中郎将・呉郡太守・長沙王叔堅を宣毅将軍・江州刺史に、尚書僕射領大著作徐陵を尚書左僕射に、中書監王勱を尚書右僕射に任ずる。庚申、丹陽尹衡陽王伯信を信威将軍・中護軍とする。庚午、太廟に親祀。二月乙酉、皇子叔卿を建安王に立て東中郎将・東揚州刺史に任ずる。三月壬子、散騎常侍孫瑒を安西将軍・荊州刺史とする。乙丑、扶南・林邑国が方物を献ずる。夏四月戊子、黄法氍を征南大将軍・南豫州刺史とする。五月癸夘、尚書右僕射王勱が卒す。六月辛巳、侍中鎮右将軍右光禄大夫杜稜が卒す。秋八月辛未、北周来聘。丁丑、景雲現る。戊寅、国の大事は師を興し廟に策を稟けるものだとして、用兵の要諦を十三科の条制にまとめ永く準則とせよとの詔を出す。乙未、湘・江二州の逋租と無錫等十五県の流民の徭役を免除。九月庚子朔、日食。辛亥、大赦天下。あわせて、諫言・進賢の道が塞がっていることを憂え、広く直言を求める詔を出す。丙寅、故太尉徐度・儀同杜稜・儀同程霊洗を高祖廟庭に、故車騎将軍章昭達を世祖廟庭に配食させる。冬十月乙酉、太廟に親祀。戊戌、沈恪を領軍将軍とする。十月己亥の夜、地震。閏月辛未、姑孰(当涂)の地の復興・軍民雑居の弊害是正・帰還者受け入れを命じる詔を出す。十二月壬寅、甘露が楽遊苑に降り、甲辰、行幸してこれを採り群臣を宴する。丁夘、梁末の兵火で焼失した東宮の再建を命じる詔を出す。

太建五年(573年)――北伐

  • 春正月癸酉、淳于量を中権大将軍、豫章王叔英を南徐州刺史・平北将軍、沈君理を尚書右僕射・領吏部とする。辛巳、南郊に親祀、甲午、太廟に親祀。二月辛丑、明堂に親祀、乙夘の夜、白気が北方から北斗・紫宮を貫く。三月壬午、諸軍を分けて北伐を開始し、呉明徹を都督征討諸軍事とする。丙戌、西衡州が角のある馬を献ずる。己丑、皇孫胤が誕生し内外文武に賜帛、父の後を継ぐ者には爵一級を賜う。北討大都督呉明徹、十万の兵を率い白下より出陣。夏四月癸夘、前巴州刺史魯広達が斉の大峴城を攻略。辛亥、呉明徹が秦州水柵を攻略。庚申、斉の援軍十万が歴陽を救おうとするが黄法氍がこれを破る。辛酉、斉軍の秦州救援を呉明徹がまた破る。癸亥、討伐軍が殺した斉兵をすべて埋葬させる詔。甲子、南譙太守徐槾が石梁城を攻略。五月己巳、石梁城降伏。癸酉、陽平郡城降伏。甲戌、徐槾が廬江郡城を攻略。丙子、黄法氍が歴陽城を攻略。己夘、北高唐郡城降伏。辛巳、黄法氍を歴陽に転鎮させ、斉が県に改めていた郡をすべて元に戻す詔。乙酉、南斉昌太守黄詠が斉昌外城を攻略。丙戍、廬陵内史任忠が東関の東西二城を攻略、進んで蘄城を攻略。戊子、また譙郡城を攻略、秦州城降伏。癸巳、瓜歩・胡墅の二城降伏。六月庚子、郢州刺史李綜が灄口城を攻略。乙巳、任忠が合州外城を攻略。庚戌、淮陽・沭陽郡が城を棄てて逃走。癸丑、景雲現る。豫章内史程文季が涇州城を攻略。乙夘、宣毅司馬湛陁が新蔡城を攻略。癸卯、北周来聘。黄法氍が合州城を攻略。呉明徹の軍が仁州に至り、甲子、その州城を攻略。この月、明堂を治める。秋七月乙丑、呉明徹を征北大将軍に進号。戊辰、斉の援軍二万を西陽太守周炅が破る。己巳、呉明徹の軍が峡口に至りその北岸城を攻略、南岸の守備兵は城を棄てて逃走。周炅が巴州城を攻略、淮北の絳城及び榖陽の士民はその渠帥を誅し城を挙げて降伏。丙戌、呉明徹が壽陽外城を攻略。八月乙未、山陽城降伏。壬寅、盱眙城降伏。戊申、南斉昌郡を廃止。壬子、戎昭将軍徐敬辯が海安城を攻略、青州東海城降伏。戊午、平固侯陳敬泰らが晋州城を攻略。九月甲子、陽平城降伏。壬申、高唐太守沈善度が馬頭城を攻略。甲戍、斉安城降伏。丙子、左衛将軍樊毅が広陵の楚子城を攻略。癸未、尚書右僕射領吏部駙馬都尉沈君理が卒す。丁亥、前鄱陽内史魯天念が黄城の小城を攻略し、斉軍は大城に退保。戊子、南兖州の盱眙郡を割いて譙州に属させる。壬辰、黄城の大城が夜明けに降伏。冬十月甲午、郭黙城降伏。戊戌、中書令王瑒を吏部尚書とする。己亥、特進領国子祭酒周弘正を尚書右僕射とする。乙巳、呉明徹が壽陽城を攻略し王琳を斬りその首を京師に伝え朱雀航に梟す。丁未、斉兵一万が潁口に至るも樊毅がこれを撃退。辛亥、斉が蒼陵へ援軍を送るもまた破る。丙辰、詔して、梁末に得た懸瓠を壽陽に置いた南豫州としていたが、今回の克復により豫州に戻し、黄城を司州とし治所を安昌郡、滻湍を漢陽郡、三城を梁以来の義陽郡として司州に属させる。呉明徹を豫州刺史・車騎大将軍に進号、黄法氍を合州刺史・征西大将軍に進号。戊午、湛陁が斉昌城を攻略。十一月甲戍、淮陰城降伏。庚辰、威虜将軍劉桃根が昫山城を攻略。辛巳、樊毅が済陰城を攻略。己丑、魯広達らが北徐州を攻略。十二月壬辰朔、詔して、反逆者の縁座制度を緩和し、熊曇朗・留異・陳宝応・周迪・鄧緒ら及び今回の王琳の首級もすべて親族に還し埋葬を許す。乙未、譙城降伏。乙巳、皇子叔明を宜都王、叔献を河東王とする。壬午、任忠が霍州城を攻略。

太建六年(574年)

  • 春正月壬戍朔、詔して軍紀の粛正を命じ、大赦の対象として江右・淮北・南・司・定・霍・光・建・朔・合・豫・北徐・仁・北兖・青・冀・南譙・南兖の諸州、郢州の斉安・西陽、江州の斉昌・新蔡・高唐、南豫州の歴陽・臨江郡の民の罪を原宥する(将帥・軍人の犯罪は常科に従う)。翌前将軍新安王伯固を中領軍・安前将軍に進号、安前将軍晋安王伯恭を安南将軍・南豫州刺史とする。壬午、太廟に親祀。甲申、広陵金城降伏。北周が来聘、高麗が方物を献ず。二月壬辰朔、日食。辛亥、親耕籍田。丙辰、淳于量を征西大将軍・郢州刺史とする。三月癸亥、南川の田租の滞納を憂い、豫章等六郡の太建五年田租を半減、豫章の四年分検首田税も秋まで延期、辺境の南康郡は四年分の田租未納分を全額免除する詔を出す。夏四月庚子、彗星が現る。辛丑、青斉旧民(膠光の部落)が北討の途上で困窮しているのを憐れみ、大使を派遣して慰撫し、陽平倉の穀を放出して糧種にあて農耕を勧める詔を出す。六月壬辰、尚書右僕射領国子祭酒周弘正が卒す。乙巳、中衛将軍・揚州刺史鄱陽王伯山を征北将軍・南徐州刺史、中護軍衡陽王伯信を宣毅将軍・揚州刺史とする。冬十一月乙亥、北討に従軍した地に十年の賦役免除を詔す。十二月癸巳、平南将軍・湘州刺史始興王叔陵を鎮南将軍に進号。戊戍、吏部尚書王瑒を尚書右僕射、度支尚書孔奐を吏部尚書とする。丙午、安右将軍・左光禄大夫王通に特進を加える。

太建七年(575年)

  • 春正月辛未、南郊に親祀。乙亥、左衛将軍樊毅が潼州城を攻略。辛巳、北郊に親祀。二月戊申、樊毅が下邳・高柵等六城を攻略。三月辛未、豫・二兖・譙・徐・合・霍・南司・定の九州および南豫・江・郢の江北諸郡に雲旗義士を置き、大軍と諸鎮の防備にあてる詔。戊寅、新除征西大将軍・合州刺史開府儀同三司黄法氍を豫州刺史とし、梁の東徐州を安州、武州を沅州に改称、譙州の鎮を新昌郡に移し秦郡を属させ、盱眙・神農二郡を南兖州に還す。夏四月丙戌、星孛が大角に現る。庚寅、監豫州陳桃根が管内で得た青牛を献ずるも詔して民に還させる。甲午、太廟に親祀。乙未、陳桃根がまた織成羅文の錦被裘各二を献ずるも雲龍門外で焼却させる詔。壬子、郢州が瑞鍾六を献ず。五月乙夘、譙州の秦郡を割いて南兖州に還し、北譙県に北譙郡を置いて陽平郡所属の北譙・西譙二県を属させ、合州の南梁郡を譙州に編入。六月丙戍、北討の戦死将士のため哭を挙げる日を定める。壬辰、尚書右僕射王瑒を尚書右僕射に任ずる(留任)。己酉、雲龍・神虎門を改築。秋八月壬寅、西陽郡の治所を保城に移す。癸卯、北周来聘。閏九月壬辰、都督呉明徹が呂梁で斉軍を大破。この月、甘露が楽遊苑に頻降し、丁未、行幸してこれを採り群臣を宴し、苑内の龍舟山に甘露亭を建てる詔。冬十月戊午、征北将軍・南徐州刺史鄱陽王伯山を征南将軍・江州刺史、安前将軍・中領軍新安王伯固を南徐州刺史・鎮北将軍に進号、信威将軍・江州刺史長沙王叔堅を雲麾将軍・中領軍とする。己巳、皇子叔斉を新蔡王、叔文を晋熙王とする。十一月庚戍、征西大将軍開府儀同三司郢州刺史淳于量を中軍大将軍とする。十二月丙辰、新除雲麾将軍・郢州刺史長沙王叔堅を平越中郎将・広州刺史、東中郎将・東揚州刺史建安王叔卿を雲麾将軍・郢州刺史、宣恵将軍宜都王叔明を東揚州刺史とする。壬戌、尚書僕射王瑒を尚書左僕射、太子詹事揚州大中正陸繕を尚書右僕射、国子祭酒徐陵を領軍将軍とする。甲子、南康郡が瑞鍾を献ず。

太建八年(576年)

  • 春正月庚辰、西南に紫雲現る。二月壬申、車騎大将軍開府儀同三司呉明徹を司空に進位。丁丑、江東道の太建五年以前の逋残租税・夏調をすべて免除する詔。夏四月甲寅、凱旋の将士を労うため十七日に楽遊苑で音楽を奏し文武を大会する詔。己未、太廟に親祀。庚寅、尚書左僕射王瑒が卒す。六月癸丑、雲麾将軍・広州刺史長沙王叔堅を合州刺史とし平北将軍に進号。甲寅、尚書右僕射陸繕を尚書左僕射、新除晋陵太守王克を尚書右僕射とする。秋八月丁夘、車騎大将軍司空呉明徹を南兖州刺史とする。九月戊戌、皇子叔彪を淮南王とする。冬十一月乙酉、平南将軍・湘州刺史長沙王叔堅を平西将軍・郢州刺史とし、丁酉、江州の晋熙・高唐・新蔡三郡を分けて晋州とする。辛丑、冠軍将軍廬陵王伯仁を中領軍とする。十二月丁夘、新除太子詹事徐陵を右光禄大夫とする。

太建九年(577年)

  • 春正月辛夘、北郊に親祀。壬寅、湘州刺史新除中衛将軍始興王叔陵を揚州刺史、雲麾将軍建安王叔卿を湘州刺史とし平南将軍に進号。二月壬子、親耕籍田。夏五月丙子、州郡の田租徴収が牧守の怠慢で滞りがちなことを憂い、太建以来八年に至るまでの流移叛戸の逋租・逋調・逋貲絹をすべて免除する詔。秋七月乙亥、輕車将軍丹陽尹江夏王伯義を合州刺史とする。己夘、百済が方物を献ず。庚辰、大雨で万安陵の華表に落雷。己丑、慧日寺の刹および瓦官寺の重門に落雷、門下にいた女子が震死。冬十月戊午、司空呉明徹が呂梁で北周将梁士彦の数万の軍を破る。十二月戊申、東宮が完成し皇太子が移居。

太建十年(578年)――呂梁の敗北

  • 春正月己巳朔、中領軍廬陵王伯仁を平北将軍・南徐州刺史、翊左将軍右光禄大夫領太子詹事徐陵を領軍将軍とする。二月甲子、北討諸軍が呂梁で敗績し、司空呉明徹以下の将卒がことごとく北周軍に捕らわれる。三月辛未、武庫に落雷。丙子、北周への備えとして諸軍を分置――中軍大将軍開府儀同三司淳于量を大都督とし水陸諸軍事を総督させ、明威将軍孫瑒を荊郢水陸諸軍事都督・鎮西将軍に進号、左衛将軍樊毅を大都督朱沛清口以上荊山に至る縁淮諸軍とし平北将軍に進号、武毅将軍任忠を壽陽・新蔡・霍州等諸軍都督とし寧遠将軍に進号。乙酉、大赦天下。丁酉、中軍大将軍開府儀同三司護軍将軍淳于量を南兖州刺史とし車騎将軍に進号。夏四月庚戌、北伐将士の労苦をねぎらい、軍にある者に爵二級を賜い恤を加えて選叙する詔。また質素倹約の意を述べ、宮室・遊観の営造を停止し内外文武の車馬・宅舎を倹約に従わせる詔を出す。丁巳、新除鎮右将軍新安王伯固を護軍将軍とする。戊午、樊毅が淮水を渡り清口の対岸に築城。庚申、大雨雹。壬戌、清口城が守り切れず陥落。五月甲申、太白昼見。六月丁夘、大雨で大皇寺の刹・荘厳寺の露盤・重陽閣の東楼・千秋門内の槐樹・鴻臚府の門に相次いで落雷。秋七月戊戌、新羅が方物を献ず。乙巳、散騎常侍兼吏部尚書袁憲を吏部尚書とする。八月乙丑朔、秦郡を義州に改称。戊寅、霜が降り稲・菽が枯死。九月壬寅、平北将軍樊毅を中領軍とする。乙巳、婁湖に方明壇を立てる。戊申、中衛将軍・揚州刺史始興王叔陵に王官伯を兼ねさせ盟を主宰させる。甲寅、行幸して誓いに臨む。乙夘、盟誓を四方に頒布し上下相戒めさせる。壬戍、宣恵将軍江夏王伯義を東揚州刺史とする。冬十月戊寅、義州および琅邪・彭城二郡を廃止し建興郡を置き、建安・同夏・烏山・江乗・臨沂・湖熟等六県を揚州に属させる。戊子、尚書左僕射陸繕を尚書僕射とする。十一月辛丑、鎮西将軍孫瑒を頴州刺史とする。十二月乙亥、合州廬江の蛮田伯興が樅陽で挙兵し寇したが、刺史魯広逹がこれを討ち平らげる。

太建十一年(579年)――淮南の喪失

  • 春正月丁酉、南兖州永寧楼側の池に龍が現る。二月癸亥、親耕籍田。三月丁未、淮北の義人で戸口を率い帰国する者は旧名で郡県を立て近隣の州に隷属させ、田宅を給し賦役召集の対象から除く詔。五月乙巳、政務の停滞を憂え、尚書曹・府寺・内省の文案はすべて局に付し参議・分判させ、軍国の興造・徴発・選序・三獄等の重要事項のみ詳断のうえ上奏させ、法を厳格・一貫に運用させる詔。甲寅、旧律の枉法受財の罪が軽すぎることを改め、不枉法受財も正盗と同罰とする詔。六月庚辰、鎮前将軍豫章王叔英を鎮南将軍・江州刺史とする。丙戍、征南将軍・江州刺史鄱陽王伯山を中権将軍・護軍将軍とする。秋七月辛夘、大貨六銖銭を初めて鋳造。八月甲子、青州義主朱顕宗ら七百戸を率い帰順。丁夘、大壮観に行幸し閲武。戊寅、還宮。冬十月甲戍、安前将軍祠部尚書晋安王伯恭を軍師将軍、尚書僕射陸繕を尚書左僕射とする。十一月辛夘、刑罰の濫用と冤罪の蓄積を憂え、寛大な処置を布告する詔とともに大赦天下。甲午、北周が柱国梁士彦の軍を肥口に至らせ、戊戌、壽陽を包囲。辛丑、車騎将軍開府儀同三司南兖州刺史淳于量を上流水軍都督とし、中領軍樊毅を北討諸軍事都督・安北将軍とし、散騎常侍左衛将軍任忠を北討諸軍事都督・平北将軍とし、前豊州刺史皋文奏に歩騎三千を率いて陽平郡へ向かわせる。癸夘、任忠が歩騎七千を率い秦郡へ向かう。丙午、新除仁威将軍右衛将軍魯広逹が軍を率い淮河に入る。この日、樊毅が水軍二万を率い東関から焦湖へ入り、武毅将軍蕭摩訶が歩騎を率い歴陽へ向かう。戊申、豫州が陥落。辛亥、霍州もまた陥落。癸丑、新除中衛大将軍・揚州刺史始興王叔陵を大都督とし水歩諸軍を総督させる。十二月乙丑、南北兖・晋三州および盱眙・山陽・陽平・馬頭・秦・歴陽・沛・北譙・南梁等九州がすべて京師へ撤退し、譙・北徐州もまた陥落、淮南の地はことごとく北周に没した。己巳、質素倹約と司法・市場税制の是正を命じる詔を出す。癸酉、平北将軍沈恪・電威将軍裴子烈を南徐州に、開遠将軍徐道奴を柵口に、前信州刺史楊寳安を白下に鎮守させる。戊寅、中領軍樊毅を鎮西将軍・荊郢巴武四州水陸諸軍事都督とする。

太建十二年(580年)

  • 春正月戊戍、散騎常侍左衛将軍任忠を平南将軍・南豫州刺史・督緣江軍防事とする。三月壬辰、平北将軍廬陵王伯仁を翌左将軍・中領軍とする。夏四月癸亥、尚書左僕射陸繕が卒す。乙丑、宣毅将軍河東王叔献を南徐州刺史とする。己夘、大雩。壬午、雨。五月癸巳、軍師将軍尚書右僕射晋安王伯恭を尚書僕射とする。六月壬戍、大風で臯門の中闥が壊れる。秋八月己未、北周の使持節上柱国鄖州総管滎陽郡公司馬消難が鄖・随・温・応・土・順・沔・儇・岳等九州および魯山・甑山・沌陽・応城・平靖・武陽・上明・涓水等八鎮を率いて内附。詔して消難を使持節侍中大都督・総督安随等九州八鎮諸軍事・車騎将軍・司空・随郡公とし鼓吹女楽各一部を給す。庚申、鎮西将軍樊毅に沔漢諸軍事を督進させ、平南将軍・南豫州刺史任忠を歴陽へ、通直散騎常侍超武将軍陳慧紀を前軍都督として南兖州へ向かわせる。戊辰、新除司空司馬消難を大都督水陸諸軍事とする。庚午、通直散騎常侍淳于量が臨江郡を攻略。癸酉、智武将軍魯広逹が郭黙城を攻略。甲戌、大雨。丙子、淳于陵が祐州城を攻略。九月癸未、北周の臨江太守劉顕光が軍を率い内附。この夜、天の東南に風水の相打つような音がして三夜続いた。丙戌、安陸郡を南司州に改称。丁亥、北周の将王延貴が歴陽へ来援したが任忠がこれを撃破し延貴らを生擒。己酉、北周の広陵義主曹薬が軍を率い内附。冬十月癸丑、大雨雹・落雷。十一月己丑、詔して、兵費が嵩み夏の旱で農が損なわれ民が窮乏していることを憂い、丹陽・呉興・晋陵・建興・義興・東海・信義・陳留・江陵等十郡の田税禄秩をすべて半減、丁租も半分を来秋の収穫まで猶予する。十二月庚辰、宣毅将軍・南徐州刺史河東王叔献が薨去。

太建十三年(581年)

  • 春正月壬午、車騎将軍開府儀同三司淳于量を左光禄大夫とする。中権将軍護軍将軍鄱陽王伯山は本号のまま開府儀同三司、鎮右将軍国子祭酒新安王伯固を揚州刺史、軍師将軍尚書僕射晋安王伯恭を尚書左僕射、右将軍丹陽尹徐陵を中書監・領太子詹事、吏部尚書袁憲を尚書右僕射とする。庚寅、輕車将軍衛尉卿宜都王叔明を南徐州刺史とする。二月甲寅、詔して司馬消難配下の北周大将軍田広らに封爵をそれぞれ与える。乙亥、親耕籍田。夏四月乙巳、衡州の始興郡を割いて東衡州、衡州を西衡州とする。五月丙辰、前鎮西将軍樊毅を中護軍とする。六月辛夘、新除中護軍樊毅を護軍将軍とする。秋九月癸亥の夜、西北から大風が起こり屋根を吹き飛ばし木を抜き、大いに雷鳴と雹があった。冬十月癸未、散騎常侍丹陽尹毛喜を吏部尚書、護軍将軍樊毅を鎮西将軍・荊州刺史とし、鄱陽郡を呉州に改称。壬寅、丹丹国が方物を献ず。十二月辛巳、彗星が現る。己亥、翊右将軍衛尉卿沈恪を護軍将軍とする。

太建十四年(582年)――崩御

  • 春正月己酉、高宗が病に伏す。甲寅、宣福殿にて崩御。時に五十三歳であった。遺詔には、疾を得てより十日足らずで医薬効なく大漸に至ったこと、十四年にわたり寰宇に君臨し常に日々を慎んできたが、辺境がなお安からず民がまだ治まらぬうちに、四海を清め八荒を包み込もうとした志が半ばで潰えたことへの無念が述べられ、皇太子叔宝への継承を命じ、群臣に協和と忠誠を求めた。喪礼については、金銀の飾りを壙に入れず明器はすべて瓦を用い、「日を以て月に易える」制に従い倹約を旨とし、諸侯・州鎮は各々の職を守り奔赴を停止するよう定めた。二月辛夘、孝宣皇帝と諡し廟号を高宗とする。癸巳、顕寧陵に葬る。高宗は在田(即位前)の頃より大度と幹略があり、登庸に及んでは天下の人望に適うものであった。梁室の喪乱以来、淮南の地は北斉に併呑されていたが、高宗は太建の初め旧境の回復を志し、神略を運らし出師させ、戦勝攻取を重ねて遂に侵地を奪還した功は大きい。北周が北斉を滅ぼすと、これに乗じて版図を広げ、周の勢力は江際にまで達した。

史論

  • 史臣は評す。高宗は器度が広く厚く、人君たる度量があった。世祖はその嫡嗣(伯宗)が仁弱で帝位を継がせられないことを知り、高宗には周公旦のごとき近親の情、世祖には呉太伯のごとき譲位の心があった。大事に及んで熟慮を尽くしたのである。纂業ののち万機の政をよく平理し、命将出師して淮南の地を克復し、封疆を静謐に保ち十余年国を治めた功は実に大きい。しかし志が大きく意気が逸り、呂梁で軍を覆し大いに師徒を喪うに至った。江左の国力が削がれ弱まったのはこれに由る。嗚呼、徳においては文(世祖の徳治)に及ばず、智においては武(高祖の武略)に及ばない。得失は自らに帰するとはいえ、外敵を禦ぐ略がなかったのである。