陳書卷四 本紀第四 廢帝

廃帝、諱は伯宗、字は奉業、小字は薬王(554–570年)。世祖の嫡長子で天康元年に即位したが、仁弱で人君の器ではなく、光大二年に慈訓太后の令により廃され臨海郡王に降された。

年表(7件)

出自と生い立ち

  • 廃帝、諱は伯宗、字は奉業、小字は薬王。世祖の嫡長子。梁の承聖三年五月庚寅(554年)に生まれた。永定二年二月戊辰、臨川王世子に拝され、三年八月庚戌、世祖の即位に伴い皇太子に立てられた。梁室の乱離で東宮が焼失していたため、太子は永福省に居した。

天康元年(566年)――即位

  • 四月癸酉、世祖が崩じ、その日のうちに太子が太極前殿で皇帝に即位した。詔して大赦天下、内外文武にはそれぞれの職務への復帰を、遠方には奔赴の停止を命じた。五月、皇太后を太皇太后に、皇后を皇太后に尊んだ。庚寅、驃騎大将軍司空揚州刺史で新たに尚書令となった安成王頊を驃騎大将軍から司徒・録尚書事・都督中外諸軍事に進め、丁酉、徐度を司空に、章昭達を侍中・征南将軍に、始興王伯茂を征東将軍に、鄱陽王伯山を鎮北将軍に、袁樞を尚書左僕射に、沈欽を尚書右僕射に、呉明徹を領軍将軍に、沈恪を護軍将軍に進め、華皎を安南将軍とし、徐度を吏部尚書とした。六月、王通を安右将軍に進めた。秋八月丁酉、妃王氏を皇后に立てた。冬十月、太廟に親祠。十一月、周が弔問の使者を遣わした。十二月、高句麗が方物を献じた。

光大元年(567年)

  • 正月、尚書左僕射袁樞が卒した。乙亥、天康二年を光大元年と改め大赦天下、孝悌力田に爵一級を賜る詔を出した。呉明徹を丹陽尹とし、辛夘、南郊に親祀した。二月、南豫州刺史余孝頃が謀反し誅殺された。始興王伯茂を中衛大将軍、黄法氍を鎮北将軍・南徐州刺史、鄱陽王伯山を鎮東将軍・東揚州刺史とした。三月、沈欽を侍中・尚書左僕射とした。夏四月、太白(金星)が昼に現れた。
  • 五月、呉明徹を安南将軍・湘州刺史とし、杜稜を領軍将軍とした。安南将軍湘州刺史華皎が謀反し、淳于量を征南大将軍としてこれを討たせた。六月、車騎将軍に進んだ司空徐度に京邑諸軍を総督させ歩道から湘州を襲わせた。閏月、新安王伯固を丹陽尹とした。秋七月、皇子至沢を皇太子に立てた。九月、逆賊華皎の討伐を告げる詔を出した。丙辰、百済が方物を献じた。周の将長胡公拓跋定が二万の兵で郢州に入り華皎と水陸から呼応したが、淳于量・呉明徹らが大破し、皎は単身江陵へ逃げ、拓跋定は捕らえられ捕虜一万余人・馬四千余匹が京師に送られた。冬十月、湘州・巴州の二郡で皎に誤って加担した者を赦し、太廟に親祀した。十一月、沈恪を荊州刺史とした。侍中中権将軍開府儀同三司特進左光禄大夫王沖が薨去。十二月、孔英哲を奉聖亭侯とし孔子の祀を奉じさせた。

光大二年(568年)――廃位

  • 正月、安成王頊を太傅・領司徒に進め殊礼(剣履上殿)を加えた。章昭達を征南大将軍に、淳于量を中軍大将軍に、呉明徹を鎮南将軍に、程霊洗を安西将軍に進めた。華皎討伐で戦死した将士に棺槥を給した。呉州を廃止し、司空車騎将軍徐度が薨去。
  • 夏四月、東揚州の晋安郡を割いて豊州を置いた。五月、太傅安成王頊が玉璽一つを献じた。六月、彗星が現れた。秋七月、太廟に親祀。新羅が方物を献じた。皇弟伯智を永陽王、伯謀を桂陽王とした。九月、林邑国・狼牙脩国が方物を献じ、章昭達を中撫大将軍とした。太白が昼に現れた。冬十月、太廟に親祀。十一月、沈恪を護軍将軍、黄法氍を鎮西将軍・郢州刺史、淳于量を鎮北将軍・南徐州刺史とした。
  • 甲寅、慈訓太后が群臣を朝堂に集め、廃立を告げる令を発した。その内容は、梁末の混乱の中で高祖・世祖が国難を鎮め礎を固めた功業を述べたうえで、伯宗が東宮にあった頃から評判が悪く、即位後も居喪中に哀しまず、諒闇にもかかわらず嬪嬙を館に招き入れ、金帛を引き出して後宮に充て国庫を空にするなど不徳の行いが甚だしいと非難するものだった。さらに、劉師知・殷不佞らを用いて安成王頊を排斥しようとしたこと、韓子高を寵愛し陰謀に加担させたこと、京師に近い余孝頃を召して禍を謀ったこと、華皎の反乱を密かに指嗾したこと、張安国・蔣裕らと結んで安成王頊の殺害を図ったことなど、一連の不逞な企てが列挙された。これらを理由に、伯宗を臨海郡王に降し藩邸へ送り返し、太伯(周の泰伯が弟に位を譲った故事)に倣って太傅安成王を新たに皇帝に迎えることが決せられた。この日、伯宗は別邸に退去した。
  • 太建二年四月に薨じ、時に十九歳であった。廃帝は仁弱で人君の器ではなく、世祖も継業に堪えぬことを憂え、久しく去就に迷っていたという。病が篤くなった際、世祖は高宗(安成王頊)を召して「太伯の事に倣いたい」と告げたが、高宗は初め意を解せず、後に悟って涙ながらに固辞したと伝わる。その後、宣太后(慈訓太后)が詔により廃帝を廃したのである。

史論

  • 史臣は評す。臨海王(廃帝)は継体の重責を負ったとはいえ、仁厚で懦弱、是非を混同し得喪に驚かぬ性であり、いわば漢の帝摯・恵帝の類であった。世祖は神器の重さを知り、これを負わせるのは難しいと深く見極め、堯が丹朱に伝えなかった旨を鑑みて、宝祚を伝えなかったのである。