陳書卷三 本紀第三 世祖
世祖文皇帝、諱は蒨、字は子華。始興昭烈王(道譚)の長子で高祖の甥にあたる(?–566年)。高祖の挙兵に加わり杜龕・張彪らの乱鎮圧に功を挙げ、永定三年に即位した。在位中は留異・周廸・陳寶應ら地方勢力の反乱を平定し、倹約と勤政の治で知られる。
出自と生い立ち
- 世祖文皇帝、諱は蒨、字は子華。始興昭烈王(道譚)の長子。若くして沈着で見識があり、容儀は美しく経史に留意し、挙動は方正で常に礼法を守った。高祖はこれを深く愛し、常に「わが一族の英秀だ」と称えた。
- 梁の太清の初め、二つの日が闘う夢を見た。大小あり、大きい方が光を失い墜落し色は黄色だった、世祖はその三分の一を取って懐に収めた(帝位を予兆する瑞夢とされる)。侯景の乱で郷人の多くが山湖に拠って略奪を行う中、世祖だけは家を保ち犯すことがなかった。乱がひどくなると臨安に避難した。
高祖挙兵への合流と呉興平定(承聖年間)
- 高祖が義兵を挙げると、侯景は世祖と衡陽献王を捕えるため使者を送った。世祖は小刀を密かに袖に入れ、拝謁の機に乗じて景を害そうとしたが、実際には属吏に留められただけで事は成らなかった。高祖の大軍が石頭を包囲すると景は世祖を害そうとしたが、景が敗れたことで世祖は脱出し高祖の陣営に赴いた。
- 呉興太守として起用され、宣城の劫帥紀機・郝仲らの侵掠を討平した。承聖二年、信武将軍・監南徐州となり、三年には高祖の広陵北征で前軍を務め常に勝利した。高祖が王僧辯討伐を企てた際、まず世祖を召して謀に加え、密かに長城へ戻らせ柵を築いて杜龕に備えさせた。世祖の集めた兵はわずか数百、戦備も乏しかったが、龍が部将杜泰に精兵五千を率いて急襲させると、将士が動揺する中で世祖は言笑自若として部署を明確にし、軍心を鎮めた。杜泰は数旬攻めあぐねて退いた。高祖が周文育に龕討伐を命じると、世祖も軍を合わせ呉興へ向かい、劉澄・蒋元挙に龕軍を攻めさせて大敗させ、龕は降伏を請うた。
- 東揚州刺史張彪が臨海太守王懐振を包囲すると、世祖は周文育と共に軽兵で会稽から彪の背後を突き、彪の部将沈泰が城門を開いて迎え入れたため、世祖はその部曲・家族をことごとく接収した。彪は若邪村で敗死し首を伝えられ、世祖は持節都督会稽等十郡諸軍事・宣毅将軍・会稽太守に任じられ、服さぬ山越を悉く平定してその威恵を広めた。高祖の受禅に伴い臨川郡王(食邑二千戸)に立てられ、侍中・安東将軍を拝した。周文育・侯安都が沌口で敗れると、高祖は世祖を召して軍儲・戎備を委ね、南晥に築城させた。
永定元年から三年(557〜559年)――即位まで
- 永定三年六月丙午、高祖が崩じると遺詔により世祖の入纂が命じられ、甲寅、南晥から至って中書省に入った。皇后の令により、世祖は牧野の殊功や戡黎の盛業を挙げて大宗を継ぐべきと勧められたが、世祖は再三固辞した。しかし群公卿士の固請により、その日太極前殿で皇帝に即位した。詔して大赦天下、逋租宿債の免除、文武への加爵、孝悌力田の父後継者への賜爵などを布いた。秋七月丙辰、皇后(高祖の后)を皇太后に尊んだ。
天嘉元年(560年)
- 正月癸丑、永定四年を天嘉元年と改元し大赦、鰥寡孤独に穀五斛、孝悌力田に爵一級を賜った。辛酉、南郊親祀、民に爵一級を賜与。辛未、北郊親祀。二月、老人星が現れる瑞祥。高州刺史紀機が王琳に応じて叛したが討平された。丙申、侯瑱が王琳を梁山で破り斉軍を博望で攻め劉伯球を捕虜とし、王琳と蕭荘は斉へ亡命した。戊戌、王琳らの乱に協従した衣冠士族を原宥し、将帥・戦兵も才により登用する詔を出した。己亥、丁身賦役の減免。庚戌、高祖第六子昌を驃騎将軍・湘州牧・衡陽王とした。
- 三月丙辰、戦乱で編戸が凋亡したことを踏まえ軍糧を三分の一減じる詔を出した。蕭荘配下の郢州刺史孫瑒が内附。丁巳、江州刺史周廸が南中を平定し熊曇朗の首を京師に送った。かねて斉が守っていた魯山城を、戊午、斉軍が放棄し程霊洗に守らせた。甲子、荊州・郢州の四郡を分けて武州・沅州・通寧郡を置き、呉明徹を武州刺史、孫瑒を湘州刺史とした。丙子、衡陽王昌が薨去。
- 夏四月、皇子伯信を衡陽王(献王の後継)とした。五月、桂陽の汝城県を廬陽郡と改め東衡州を置いた。六月、皇祖妣の諡を景文皇后と改め、梁孝元帝(元帝蕭繹)の霊柩を江陵から迎え江寧に改葬する詔(魏が漢の献帝を葬った故事に倣う)を出した。七月、賢才登用を求める詔を出し、新安太守陸山才が蕭策・王暹らを推薦した。編戸の僑旧を問わず土断の例に依らせる詔も出た。八月、老人星が現れ、農桑を勧め奢侈を戒める詔が続けて出された。九月、彗星が現れる。周将賀若敦が武陵に迫るが呉明徹は拒めず巴陵へ退いた。十月、侯瑱が独孤盛を楊葉洲で破った。十二月、罪の裁断を寛大にする詔、周の巴陵城主尉遅憲の降伏、独孤盛の潜遁が続いた。
天嘉二年(561年)
- 正月、大赦天下。辛未、周の湘州城主殷亮が降伏し湘州平定。二月、侯瑱を車騎将軍・湘州刺史とした。三月、侯瑱が薨去し徐度が湘州刺史となった。夏四月、南荊州を置き呉明徹を刺史とした。秋七月、周将賀若敦が撤退し武陵・天門・南平・義陽・河東が悉く平定された。九月、故大司馬驃騎大将軍侯瑱・故司空周文育・故平北将軍杜僧明・故中護軍胡頴・故領軍将軍陳擬を高祖廟庭に配食する詔を出した。十二月、始興国廟を京師に立て、虞荔・孔奐の奏により煮海塩の賦と榷酤の法を施行した。留異が王琳らに応じて反したため、侯安都に討伐を命じた。
天嘉三年(562年)
- 正月、南郊に帷宮を設け胡公(陳の始祖)を配して天を祭った。閏二月、百済王余明を撫東大将軍、高句麗王高湯を寧東将軍とした。江州刺史周廸が留異に応じて挙兵し湓城を襲い豫章郡を攻めたが功を得なかった。甲子、五銖銭を改鋳。三月、安成王頊が周から帰還し侍中・中書監・中衛将軍を授かった。呉明徹を安南将軍・江州刺史として南討を督させ、庚寅、侯安都が留異を桃支嶺で破り、異は晋安へ逃走、東陽郡が平定された。
- 六月、安成王頊を驃騎将軍・揚州刺史とし、会稽・東陽・臨海・永嘉・新安・新寧・晋安・建安の八郡を割いて東揚州を置き始興王伯茂をその刺史、侯安都を侍中・征北大将軍とした。秋七月、皇太子が王氏を妃に迎えた。九月、日食があった。丁亥、周廸が降伏を請い安成王頊に招納を督させた。この年、周が擁立した梁王蕭詧が死去し子の巋が代わって立った。
天嘉四年(563年)
- 正月、干陀利国が方物を献じた。甲申、周廸が再び城を捨てて逃げ、閩州刺史陳寶應がこれを匿ったため臨川郡が平定された。章昭達を護軍将軍、華皎を平南将軍、黄法氍を鎮北大将軍・南徐州刺史、周敷を南豫州刺史、孫瑒を鎮右将軍とし、高州を江州に併合した。二月、欧陽頠を征南大将軍に、侯安都を征南大将軍・江州刺史に、華皎を南湘州刺史に進めた。
- 夏四月、太極前殿で無㝵大会を開いた。六月、太白(金星)が昼に現れ、侯安都が賜死となった。九月、欧陽頠が薨去。辛未、周廸が再び臨川に侵寇し、章昭達に討伐を命じた。十一月、章昭達が周廸を大破し、廸は身一つで潜竄した。十二月、大赦。章昭達に建安への進軍と陳寶應討伐を命じ、余孝頃に会稽・東陽・臨海・永嘉の諸軍を督させ東道から合流させた。
天嘉五年(564年)
- 正月、袁樞を丹陽尹とした。三月、周鉄虎を高祖廟庭に配食する詔を出した。五月、南丹陽郡を廃した。周・斉がともに使者を遣わし通聘した。秋七月、疾病を理由に京師を曲赦する詔を出した。冬十一月、程霊洗を中護軍とし、章昭達が陳寶應を建安で破って寶應・留異を生け捕り京師へ送り、晋安郡が平定された。十二月、建安・晋安二郡を曲赦し、戦死した将士に棺槥を給し遺族の賦役を免除した。
天嘉六年(565年)
- 正月、皇太子が元服。三月、乱で建安・晋安・義安に移った者の帰郷、掠奪されて奴婢となった者の解放を許す詔を出した。夏四月、安成王頊を司空とした。辛酉、彗星が現れた。秋七月、大風で霊台の候楼が壊れ、儀賢堂も故なく倒壊した。丙戌、臨川太守駱文牙が周廸を斬り首を京師に送り朱雀航に梟した。八月、前代の忠烈の墳墓を修治する詔を出し、皇子伯固を新安王、伯恭を晋安王、伯仁を廬陵王、伯義を江夏王とした。九月、豫章郡を廃し大航を新造した。十二月、皇子伯礼を武陵王とし、章昭達を鎮南将軍・江州刺史、黄法氍を中衛大将軍、程霊洗を郢州刺史、沈恪を中護軍、呉明徹を中領軍とした。鄱陽王伯山を平北将軍・南徐州刺史とし、歳暮に京師を曲赦した。
天康元年(566年)――崩御
- 二月丙子、天嘉七年を天康元年と改め大赦天下。三月、安成王頊を尚書令とした。夏四月乙卯、皇孫至澤が誕生し、爵位を賜与した。癸酉、世祖の病が重くなり、その日、有覚殿で崩じた。遺詔は「疾苦は篤く、命数はいかんともしがたい。ただ王業は艱難で、頻年の軍旅で民に弊が多く、心にかけて忘れずにいた。今ようやく四方が定まったが教化はまだ広まっていない。太子は速やかに帝位に即き、王侯将相はよく補佐し内外協和して朕の意に違うことのないように。陵墓は倹約速成を旨とし、群臣の弔問は三日一臨とし旧典に依れ」というものだった。六月甲子、群臣は諡を文皇帝、廟号を世祖と奉り、丙寅、永寧陵に葬った。
- 世祖は艱難の中から身を起こし、百姓の疾苦をよく知り、国用も倹約を旨とした。已むを得ず賦役を課す際は必ず嘆息し顔色を改めた。臣下の奏決には真偽を見抜く力があり、下の者は姦をなせなかった。夜も外部からの上奏を刺閨(夜間の緊急上奏)で取り次がせ、前後絶えることがなかった。更漏を伝える鎗(合図の鈴)を階石の上に投げさせ、音を立てさせて「眠っていても目を覚ますように」と命じたという。このように政務に励む逸話が多く伝わる。
史論
- 陳吏部尚書姚察は評す。世に「継体守文の宗枝が統を承ける」際の得失は詳しく論じられてきた。おおむね、受け継いだものを守り墜さぬ者が賢とされ、これを撓めて易える者が不肖とされる。前軌を光揚し曾構をよく荷う者は、それゆえに少ない。世祖は当初から功業が顕著で、乱を鎮め寇を平らげて大業を初めから佐け、国難に遭って帝位を継いでからも、兢兢業業として朽ちた手綱を馭すが如くであった。加えて儒術を崇尚し文義を愛好し、善を見ては及ばぬかのように努め、人を用いては己のように扱い、恭倹に身を持し勤労して民を済った。古来の允文允武の君、東征西怨の后のような賓実の跡に列することができ、聡明さで鑑識を用いた点は永平(後漢明帝)の政に比すべきものであると、前史も論じている。