陳書卷二 本紀第二 髙祖下
陳の初代皇帝高祖(在位557–559年)。永定と改元して即位し、寛政を布いて建国当初の国政を固めたが、在位わずか三年で崩御した。倹素を旨とし、征伐すればことごとく克つ英略で知られる。
永定元年(557年)――即位
- 冬十月乙亥、高祖は南郊で柴燎の礼を行い皇帝に即位、天に告げる文で、梁の末運が乱れ侯景の乱・王僧辯の専横などを経て自らが乱を治め帝位を継ぐに至った経緯と、再三辞退したが群臣の請いにより受けたことを述べた。礼を終え太極前殿に還御し、大赦天下・改元永定元年を詔した。民に爵位二級、文武官に位二等を賜り、鰥寡孤独で自活できぬ者に穀五斛を給し、逋租宿債を免除、贓汚淫盗の罪に問われた者も洗い改めさせるなど寛大な措置を取った。
- 梁の江陰王(旧帝)には梁の正朔・車旗服色をそのまま用いることを許し、皇太后・皇后もそれぞれ江陰国太妃・江陰国妃とし、百司には位に応じて職を摂行させた。丙子、鍾山の蔣帝廟に親祭。戊寅、華林園で親しく訴訟を聴き囚人を赦した。己夘、四方に大使を分遣し、州郡への璽書では、梁の滅亡が蕭勃・侯景・貞陽侯・王琳ら相次ぐ内乱によるものであったこと、高祖自身が各地を転戦してついに天命により陳を建てるに至った経緯を述べ、寛仁の政を布くと告げた。
- 庚辰、仏牙を杜姥宅に出して無遮大会を開き、高祖自ら礼拝した(斉の僧統法献が烏纒国から得た仏牙で、慧興・慧志を経て高祖に密送されたもの)。辛巳、亡父を景皇帝・廟号太祖に追尊し、母董太夫人を安皇后、先夫人銭氏を昭皇后に追謚、世子克を孝懐太子とし、夫人章氏を皇后に立てた。癸未、景帝陵を瑞陵、昭皇后陵を嘉陵と称し梁初の園陵の故事に依らせ、刪定郎に律令の改定を命じた。戊子、景皇帝の神主を太廟に祔す。辛夘、王沖を左光禄大夫とした。癸巳、皇兄道譚(梁の散騎常侍・平北将軍・兗州刺史・長城県公)に驃騎大将軍・太尉・始興郡王を、弟休先(梁の侍中・驃騎将軍・南徐州刺史・武康県侯)に車騎大将軍・司徒・南康郡王を追贈した。
- この月、西討都督周文育・侯安都が郢州で敗れ王琳の捕虜となった。十一月丙申、詔により臨川郡王(世子蒨)を元功として厚く賞し、兄子頊を始興王、弟子曇朗を南康王とした。己亥、鍾山に甘露が降る瑞祥。丙辰、徐度を鎮右将軍・領軍将軍とした。庚申、京師で大火。十二月庚辰、皇后が太廟に謁した。
永定二年(558年)
- 正月乙未、官制の詔(左右驍騎を文武に通用させる制)が出され、車騎将軍侯瑱が司空に進み、王沖を太子少傅、徐世譜を護軍将軍、呉明徹を安南将軍、欧陽頠を鎮南将軍とした。辛丑、南郊親祀の詔で王琳以下西寇の帰順者を赦し、募った義軍を解散させた。乙巳、北郊親祀。甲辰、梁州刺史張立が丹徒蘭陵の海濱に千余頃の肥沃な新生地ができたと表上。戊午、明堂親祀。
- 二月壬申、南豫州刺史沈泰が斉へ出奔。辛夘、侯瑱に水歩諸軍を統べさせ斉の侵攻に備えさせた。三月甲午、沈泰の反覆を非難しつつも「朝廷は人を負わない」として、その部曲妻子の復業を許す詔を出した。乙夘、高祖は聴訟の後、橋上で山水を観て詩を賦した。この月、王琳が梁の永嘉王蕭荘を郢州に擁立。夏四月甲子、太廟に親祀。乙丑、江陰王(梁の敬帝)が薨去、梁の武林侯蕭諮の子季卿を後嗣の江陰王とした。丙寅、石頭で司空侯瑱を見送る。戊辰、重雲殿の鴟尾に紫煙が立つ怪異。五月乙未、京師で地震。癸丑、斉の広陵の将らが帰附。辛酉、大荘厳寺に幸し捨身。壬戌、群臣の請いで還宮。
- 六月己巳、侯瑱・徐度に王琳討伐の前軍を命じ、秋七月戊戌、高祖は石頭に幸して見送った。己亥、江州刺史周廸が王琳の将李孝欽・樊猛・余孝頃を工塘で捕えた。甲辰、謝哲を遣わし王琳を諭させた。甲寅、嘉禾の瑞。侯景の乱で焼失した太極殿の柱に用いる大樟木が流れ着き、これを機に八月丙寅、太極殿の再建が始まり、広梁郡を陳留郡と改めた。辛未、臨川王蒨に西討を命じ舟師五万を発し、高祖は冶城寺で見送った。かつて王琳の下に逃れていた周文育・侯安都が自ら罪を告げ帰還したが、高祖は宥して本官に復した。壬午、亡き皇子立を豫章王(諡献)、権を長沙王(諡思)、長女を永世公主(諡懿)に追封した。謝哲が復命し王琳が湘州への帰還を願い出たため、進軍中の衆軍を追って伐を緩めさせた。丁亥、周廸を開府儀同三司・平南将軍に進め、南蘭陵郡を東海郡に復した。
- 冬十月庚午、周文育に豫章の余孝勱討伐を命じた。乙亥、荘厳寺で金光明経の講義を発した。丁酉、黄法氍を開府儀同三司・鎮南将軍に進めた。甲寅、太極殿が完成し、匠には賦役免除が与えられた。十二月庚申、臨川王蒨が百官を率いて前殿に朝賀、甲子、大荘厳寺で無㝵大会を開き還宮した。丙寅、太極殿東堂で群臣を宴し路寝完成を祝った。壬申、呉郡の三県を割いて海寧郡、安成の六洞を割いて安楽郡を置いた。丙戍、熊曇朗を開府儀同三司・平西将軍に進めた。丁亥、乱離で未叙用の梁の旧仕や軍功者五十余人を選拔登用する詔を出した。
永定三年(559年)――崩御
- 正月己丑、青龍が現れる瑞祥。丁酉、欧陽頠を開府儀同三司に進め、この夜大雪、太極殿前に龍の跡が見られた。甲午、広州刺史欧陽頠が数十丈の白龍と羅浮山の仙人出現を表上。辛丑、南康・始興二王の姉妹を皇女と同格に扱う詔。戊申、臨川王蒨に揚徐二州の訴訟を省させた。
- 二月辛酉、淳于量を開府儀同三司・鎮西大将軍に進めた。壬午、侯瑱が合肥へ進み斉の舟艦を焼いた。三月丙申、侯瑱が凱旋。夏閏四月庚寅、呉州・縉州の蝗害・旱害に対し中書舎人江徳藻を派遣して恤問させ台倉の米を分与する詔を出した。甲午、前代に倣い西省に学士を置き技術者も加えた。丁酉、徐度に南晥口の築城を命じた。この頃日照りが続き、丙午、高祖が蔣帝廟に祈ると雨が月末まで降り続いた。
- 五月丙辰朔、日食があり、衮冕の服を用いる新例を定めた。丙寅、扶南国が方物を献じた。乙酉、北江州刺史熊曇朗が都督周文育を軍中で殺して反し、王琳は将常衆愛・曹慶に余孝勱を援けさせた。六月戊子、侯安都が衆愛らを左里で破り、王琳の従弟襲・主帥羊暕ら四十余人を捕えた。庚寅、逃げた常衆愛は廬山の民に斬られ首が京師に送られた。甲午、曇朗討伐を継続する詔を出し、臨川王蒨を召還した。丁酉、高祖が体調を崩し、兼太宰王通が太廟に、兼太宰中書令謝哲が大社南北郊に病を告げた。辛丑、病はやや癒え、故司空周文育の柩が建昌から到着。壬寅、高祖は東堂で哀哭し、癸夘、獄訟を親臨。この夜熒惑が天尊に入る異変があり、病が重くなった。丙午、璿璣殿で崩御、時に五十七歳。遺詔により臨川王蒨の入纂を命じた。甲寅、大行皇帝の遺骸は太極殿西階に遷殯された。秋八月甲午、群臣が武皇帝・廟号高祖の諡を上り、丙申、万安陵に葬られた。
- 高祖は智謀で民を安んじ武で乱を鎮め、その英謀は誰も及ばなかった。征伐すればことごとく克ち、乱を鎮め凶を平らげ、大麓(宰輔)の任に登ってからも寛政と愛育を本とし、賦役調達も已むを得ぬ場合に限った。加えて自ら倹素を旨とし、常膳は数品に過ぎず、私宴も瓦器・蚌盤で足りる程度にとどめ、無駄な出費をしなかった。侯景平定・紹泰の際に得た子女・玉帛はみな将士に分け与え、後宮も華美な衣服・金翠の飾り・女楽を置かなかった。即位後もいっそう恭倹に努め、それゆえ功徳が盛んで天下を保つに至った。
史論
- 陳吏部尚書姚察は評す。高祖の英略・大度・応変の才は、漢の高祖・魏の武帝に亜ぐものであった。西都(江陵)が陥落した際、王僧辯は伊尹のような才がなく空しく憤りを結ぶに過ぎず、貞陽侯は斉の兵を借りて即位したが穆嬴(春秋晋の故事に見える忠義の女性)のような諫めを顧みなかった。高祖はこうした玄機を捉え末運を支え、時勢の隙に乗じて横流を拯った。王迹の基はここに始まり、殷の伊尹が夏を討った功にとどまらない。世が改まり天命が改まる中、人々は謳歌して炎精(梁)の去るのを重荷を下ろすように喜んだ。前代に比べても、これほど美しいことがあろうか。