陳書卷一 本紀第一 髙祖上
高祖武皇帝、諱は覇先、字は興国、小字は法生(503–559年)。呉興長城の人で、後漢の陳寔の後裔と称した。若くして兵書を好み武芸に明るく、蕭暎への出仕を経て交州平定・侯景討伐で頭角を現した。王僧辯を誅殺して混乱を収拾し、梁より禅譲を受けて陳を建国した創業者である。
年表(14件)
- 503年梁天監二年、呉興長城に生まれる
- 大同年間(頃)535年蕭暎に仕え広州で反乱を討平する
- 太清元年547年交州に至り李賁の軍を大破し交州を平定する
- 太清二年548年広州刺史元景仲の陰謀を察知し戒厳する
- 太清三年549年広州で挙兵して元景仲を討ち、始興郡の欧陽頠を救援する
- 大寶元年550年蔡路養を南野で撃破し南康に進駐する
- 大寶二年551年李遷仕を討ち、江州平定を命じられ江州刺史を兼任する
- 大寶三年552年建康を攻めて侯景軍を大破し、侯景を敗走させる
- 承聖三年554年司空に進位する
- 承聖四年555年王僧辯を誅殺し、晋安王を擁立して即位させる
- 紹泰元年555年杜龕・徐嗣徽・韋載らの反乱を鎮圧する
- 紹泰二年556年莫府山南で斉の大軍を撃退し、太平と改元する
- 太平二年557年蕭勃の乱の討伐を命じ、太傅に進み九錫を受ける
- 太平二年557年梁帝より禅位の詔を受け、群臣の固請により皇帝位を継ぐ
出自と生い立ち
- 高祖武皇帝、諱は覇先、字は興国、小字は法生。呉興長城下若里の人。後漢の陳寔の後裔で、代々潁川に居した。
- 陳寔の玄孫の準は晋の太尉となり、準の子匡、匡の子逹は永嘉の南遷で丞相掾から太子洗馬を経て長城令となり、この地に家した。逹は「この地の山川は秀麗で、二百年後に王者が興り我が子孫がその運を担うだろう」と語ったという。
- 逹の後、康(丞相掾、咸和中の土断で長城人となる)―盱眙太守英―尚書郎公弼―歩兵校尉鼎―散騎侍郎高―懐安令詠―安成太守猛―太常卿道巨―皇考文讚と続き、高祖は梁天監二年癸未歳(503年)に生まれた。
- 若くして大志を抱き、生業を治めず、兵書を好んで武芸に明るく、果断で当時の人々に推服された。身長七尺五寸、日角龍顔、垂手は膝を過ぎるほどだったという。
- かつて義興に遊学した際、許氏の家で夜、天が数丈も開き四人の朱衣の者が日を捧げて現れ、高祖に口を開かせて呑ませる夢を見た。目覚めても腹中が熱く、高祖は心中これを誇りとした。
大同年間(535年頃)――蕭暎への出仕
- 大同の初め、新喩侯蕭暎が呉興太守となり高祖を重んじ、僚佐に「この人はいずれ遠大な人物になる」と評した。暎が広州刺史となると、高祖は中直兵参軍として随行し、士馬千人余りを招集した。宋隆郡の安化二県が服さず、高祖はこれを討平した。西江督護・高要郡守も監督。
- 交州刺史蕭諮が苛政で人心を失い、李賁が数州の豪傑と結んで反乱。台の高州刺史孫冏・新州刺史盧子雄が討伐に赴くが遅延を理由に広州で処刑され、子雄の弟子略と冏の子姪、主帥杜天合・杜僧明らが挙兵し、南江督護沈顗を捕らえて広州を包囲した。高祖は精兵三千を率いて急行救援し、連戦連勝して杜天合を流矢で討ち取り、賊衆は大潰、杜僧明は降伏した。
- 梁武帝はこれを深く賞賛し、高祖に直閣将軍・新安子(食邑三百戸)を授け、画工に容貌を描かせた。同年冬、蕭暎が没し、高祖は喪を送って都へ帰る途中、大庾嶺で交州司馬領武平太守を命じられ、刺史楊㬓とともに南討することとなった。
太清元年(547年)――交州平定
- 高祖は勇敢な兵を招集し器械を精利にし、楊㬓に「賊を破れるのは陳司武(高祖)だけだ」と経略を委ねられた。番禺を発つと、定州刺史蕭勃が西江で合流し、遠征を厭う軍士を誘って楊㬓に讒言したが、高祖は「交趾の叛乱は宗室の罪に由来し、討たねば国憲が立たない」と説き、進軍を続けた。
- 六月、交州に至り、李賁の数万の軍が蘇歴江口に城柵を築いて対峙。楊㬓は高祖を先鋒とし、賁は敗走して典徹湖の屈獠界に大船団で立てこもった。諸軍が怖じて進めない中、高祖は「持久戦は不利、一気に攻めるべき」と主張。その夜、江水が七丈も暴増し湖に流れ込んだのに乗じ、高祖は兵を進めて賊を大破、李賁は屈獠洞に逃げ込み、屈獠人がこれを斬って首を京師に送った(太清元年)。
- 李賁の兄天寶は九真に逃れ、李紹隆と二万の兵を集めて徳州刺史陳文戒を殺し愛州を包囲したが、高祖はこれも討平。鎮遠将軍・西江督護・高要太守・七郡諸軍事都督に任じられた。
太清二年(548年)――侯景の乱と広州の異変
- 冬、侯景が京師を攻め、高祖は援軍を率いようとしたが、広州刺史元景仲がひそかに異心を抱き高祖を害そうと図った。高祖はこれを察知し、成州刺史王懐明・行台選郎殷外臣らと密議して戒厳した。
太清三年(549年)――広州挙兵と始興郡救援
- 七月、南海で義兵を集め檄を発して元景仲を討ち、元景仲は窮して閣下で縊死。高祖は蕭勃を迎えて広州を鎮めさせた。
- このとき臨賀内史欧陽頠が衡州を監していたが、蘭裕・蘭京が始興等十郡を扇動して欧陽頠を攻めた。欧陽頠は蕭勃に援軍を求め、勃は高祖に救援を命じ、高祖は蘭裕らをことごとく捕らえ、そのまま始興郡の監督も兼ねた。
- 十一月、高祖は杜僧明・胡頴に二千人を率いさせ嶺上に駐屯させ、始興の豪傑と結び、侯安都・張偲ら千余人も来附した。蕭勃はこれを聞き鍾休悦を遣わし、「侯景は天下無敵で嶺北の諸侯も動揺している。少数の兵でどうするつもりか。しばらく始興に留まり形勢を見よ」と説得させた。高祖は涙ながらに「かつて侯景渡江の際すぐ援軍に赴こうとしたが元景仲・蘭裕に阻まれた。今京都は陥落し主上は蒙塵、君辱められれば臣は死すべきときだ」と答え、出兵の決意を告げた。ひそかに使者を江陵へ送り軍期の指示を仰いだ。
- このころ蔡路養が南康で挙兵し、蕭勃の腹心譚世遠を曲江令として結び義軍を阻んだ。
大寶元年(550年)――蔡路養討伐
- 正月、高祖は始興を発し大庾嶺を越えて南野に至り、蔡路養が四城を築いて防ぐのを撃破、路養は敗走した。高祖は南康に進駐し、湘東王(蕭繹)の承制により員外散騎常侍・持節・明威将軍・交州刺史(南野県伯に改封)を授けられた。
- 六月、崎頭古城を修築して移り住んだ。高州刺史李遷仕が大臯に拠って主帥杜平虜を灨石魚梁に派遣したが、周文育がこれを撃退し、遷仕は寧都へ逃げた。承制により高祖は通直散騎常侍・使持節・信威将軍・豫州刺史(豫章内史兼任、長城県侯に改封)、さらに散騎常侍・使持節・都督六郡諸軍事・軍師将軍・南江州刺史を授けられた。
- 寧都の劉藹らが李遷仕の兵船・武器を頼りに南康を襲おうとしたため、高祖は杜僧明らに二万人で白口に築城させ防いだ。李遷仕も対抗して築城した。
大寶二年(551年)――江州刺史・侯景討伐への合流
- 三月、杜僧明らが李遷仕の城を陥落させ、遷仕を生け捕りにして南康へ送り、高祖はこれを斬った。承制により高祖は江州平定を命じられ、江州刺史を兼任した。
- 六月、高祖が南康を発つと、灨石の難所とされる二十四灘一帯で水が数丈も暴増し三百里の巨石が水没、進軍が容易になった。西昌に進駐した際、水辺に高さ五丈余りの龍が現れ、数万の軍民が見物したという。
- このころ承制により征東将軍王僧辯が侯景討伐の軍を率い、八月に湓城に進んだ。高祖も杜僧明らの衆軍と南川の豪帥を合わせた三万人を率いて合流しようとした。西軍の食糧が乏しかったため、高祖は貯えていた五十万石のうち三十万石を分与し、巴丘に駐屯した。侯景が簡文帝を廃し豫章嗣王蕭棟を擁立すると、高祖は兼長史沈衮を江陵に遣わし勧進の上表をした。
- 十一月、承制により高祖は都督会稽・東陽・新安・臨海・永嘉五郡諸軍事・平東将軍・東揚州刺史(会稽太守・豫章内史兼任)を授けられた。
大寶三年(552年)――建康奪還と承聖への改元
- 正月、甲士三万・彊弩五千・舟艦二千を率い豫章を発ち、二月、桑落洲に進んで中記室参軍江元礼を江陵へ遣わし、承制により鼓吹一部を加賜された。王僧辯はすでに湓城を発っており、白茅湾で高祖と会し、登壇して犠牲を捧げ盟約した。
- 蕪湖に進軍すると侯景方の城主張黒が城を捨てて逃走。三月、姑孰を攻略し蔡洲に進んだ。侯景は石頭城から形勢を望み不安を覚え、船を沈めて淮口を塞ぎ、石頭から青渓まで十里余りに城壁を連ねた。諸将が決断できずにいると、王僧辯の使者杜崱が高祖に計を問い、高祖は「北岸へ渡って石頭を包囲すべきだ」と答え、自ら石頭城西の横隴に柵を築いた。衆軍も連なって八城を築き、賊軍は東北に五城を築いて対抗、侯景は鉄騎八百を含む万余の兵で陣を構えた。
- 高祖は「衆をもって寡に当たり、力を分散させて敵の鋭鋒を制すべき」と分兵策を献じ、徐度に弩手二千を率いさせ王僧志の軍の背後を突かせて撃退。さらに王琳・杜龕らの鉄騎で追撃し、侯景方の盧輝略が石頭北門を開いて降伏。攻防を繰り返した末、高祖自ら柵を乗り越えて攻め入り、侯景軍は大潰走。侯景はわずかな騎兵と共に建康の闕下まで逃げ、二子を殺して逃亡した。高祖は広陵に出て侯景の部将郭元建の降兵三千を受け入れて帰還し、王僧辯の推挙で京口の鎮守となった。
- 五月、斉が秦郡の厳超達を包囲すると、高祖は徐度に守備を助けさせ、自らも一万人を率いて包囲を解き、斉軍を撃退して平秦王を討ち取った。七月、広陵の僑民朱盛・張象らが斉刺史温仲邕を襲おうとし救援を求め、高祖は江を渡って応じたが、斉との和議(広陵割譲)により王僧辯がこれを受け入れたため、高祖は軍を返し、江北の民一万余口を伴って南徐州へ帰った。承制により都督南徐州諸軍事・征北大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史を授けられた。
- 王僧辯が湘州の陸納討伐に出た際、高祖が代わって揚州を鎮守。十一月、湘東王が江陵で即位し、大寶三年を承聖元年と改めた。湘州平定後、高祖は京口に戻った。
承聖三年(554年)――司空進位
- 三月、高祖は司空に進位した。十一月、西魏が江陵を陥落させると、高祖は王僧辯らと江州へ上表し晋安王を太宰に推挙、長史謝哲に勧進の牋を奉じさせた。十二月、晋安王が潯陽から入京して朝堂に居し、高祖に班剣二十人が賜られた。
承聖四年(555年)――王僧辯誅殺と紹泰改元
- 五月、斉が貞陽侯蕭淵明を送り帝位に即けようとし、王僧辯はこれを受け入れて天成と改元、晋安王を皇太子とした。高祖は当初からこれに反対し、王僧辯に幾度も諫言したが聞き入れられず、側近に「武皇の血統は各地に広がっているが、讎を雪ぎ艱難を済ったのは孝元帝だけだった。功業は前代に例がないのに、王公と共に受けた重任の誓いが忘れられようとしている」と憤慨した。ひそかに袍数千領・錦綵・金銀を賞賜のため用意した。
- 九月壬寅、高祖は徐度・侯安都・周文育らと謀り、その夜南徐州を発って王僧辯討伐に向かった。甲辰、石頭城に至り勇士を城内に忍び込ませ、内応させて攻めた。王僧辯は第三子頠と共に逃げようとしたが、高祖の大軍に囲まれ、城南門楼で追い詰められ捕らえられ、その夜縊殺された。丙午、貞陽侯は退位。百官は晋安王の即位を勧進し、十月己酉、晋安王が即位して承聖四年を紹泰元年と改めた。壬子、高祖は侍中・大都督中外諸軍事・車騎将軍・揚南徐二州刺史・持節・司空・班剣鼓吹を授けられ、甲仗百人を率いての殿省出入りを許された。
紹泰元年(555年)――杜龕・徐嗣徽の乱鎮圧
- 呉興を拠点とする震州刺史杜龕が義興太守韋載と共謀して挙兵。高祖は周文育に義興の韋載討伐を命じ、杜龕の従弟北叟の応戦を撃破。高祖自ら東討を表明し、留守に侯安都・杜稜を配した。義興の水柵を陥落させると、秦州刺史徐嗣徽が城を斉に開いて南豫州刺史任約と共に杜龕・韋載に呼応、斉の兵糧援助を受けた五千の精兵で建康を急襲したが、侯安都の五百の驍勇が撃退し斉軍は石頭に退いた。丁丑、韋載・北叟が降伏し高祖はこれを許した。徐嗣徽の脅威に備え軍を返し、周文育に杜龕討伐を続けさせた。
- 十一月、斉が兵五千で姑孰を占拠すると、高祖は合州刺史徐度に冶城寺に柵を築かせた。斉はさらに安州・楚州・淮州の刺史ら万人を胡墅から渡らせ、米三万石・馬千匹を石頭に運び入れた。高祖は侯安都に胡墅の斉船千余艘を焼かせ、周鉄虎に運輸路を断たせて北徐州刺史張領州を捕らえ、韋載に大航へ築城させ杜稜に守らせた。斉軍が冶城柵を攻めると、高祖自ら鉄騎で出撃しこれを大破、徐嗣徽は栁達摩らに城を守らせ自身は采石へ斉の援軍を求めに向かった。
- 十二月、侯安都が秦州で徐嗣徽の家族数百人を捕虜にし、淮口を封鎖して賊の水路を断った。太白(金星)が一時見えなくなり東方に現れる異変が続いた後、高祖は全軍で水南の二柵を攻め、栁達摩らを渡河させて陣を敷かせたところを猛攻、火を放って柵を焼き、賊は舟を争って溺死する者が千を数えた。逹摩は降伏を請い、高祖はこれを許して城門外で盟約し、将士部曲は不問として南北へ自由に去らせた。江寧県令陳嗣・黄門侍郎曹朗が姑孰で反乱するが討平され、石頭・采石・南州が悉く平定された。この月、杜龕も降伏した。
紹泰二年(556年)――斉軍撃退と太平改元
- 正月、杜龕を呉興で誅殺、従弟北叟・司馬沈孝敦も賜死。二月、侯安都・周鉄虎に江州の防備を固めさせ梁山に柵を築かせた。三月、斉が水軍十万で梁山に迫るが盪主黄叢が撃退、前軍の船を焼いた。斉軍は蕪湖に駐屯し、高祖は沈泰・裴忌を梁山に配して防御を固めた。この頃、鍾山・梅崗・南澗・京口・江寧県境に甘露が頻繁に降り、瑞祥として朝廷に献上された。四月、高祖は梁山軍を巡撫した。
- 五月、斉軍が蕪湖を発し秣陵故治に至った。高祖は周文育を方山、徐度を馬牧、杜稜を大航南に配した。六月己亥、高祖は宗室・王侯・朝臣を率いて白虎闕下で犠牲を捧げ天に告げ、斉の背信を非難して士気を鼓舞した。斉軍は秣陵故県で淮に橋柵を築いて渡り、方山に至った。高祖軍はいったん京師に引いたが、斉軍が方山から児塘へ進むと臺の遊騎が接触、周文育・侯安都は白土崗に対陣した。高祖はひそかに精鋭三千を沈泰に配し瓜歩を渡って斉の輸送を襲い、大量の兵糧を得た。
- 六月以降、鍾山・莫府山・玄武湖周辺で一進一退の攻防が続いた。高祖は銭明に水軍を率いさせ江乗で斉の糧運を断ち、斉軍は飢えて馬驢を食う有様となった。暴風雨で泥濘に苦しむ斉軍に対し、甲寅、高祖は全軍に英気を養わせ、乙卯の早朝、莫府山南で全軍が一斉に攻勢に転じ、侯安都が白下から背後を突いて斉軍は大潰走。徐嗣徽・嗣宗兄弟を生け捕りにして斬り、蕭軌・東方老・王敬寶・李希光・裴英起ら将帥四十六人を虜にした。逃げ延びた斉兵の多くも長江で溺死した。丁巳、南州で斉の舟艦を焼き、己未、劉帰義・徐嗣彦・傅野猪を建康市で斬った。この日、戒厳が解かれ、庚申、蕭軌・東方老・王敬寶・李希光・裴英起は処刑された。高祖は南徐州刺史を辞し侯安都に授けた。
- 七月丙子、高祖は中書監・司徒・揚州刺史に進み、爵は公に進み食邑五千戸、侍中・都督中外諸軍事・将軍・尚書令・班剣鼓吹甲仗はそのままとし、油幢皁輪車を加賜された。この月、侯瑱が江州を以て帰附し、侯安都が上流の鎮守として南中諸郡を平定した。八月、太府卿何敳・新州刺史華志が玉璽を献上、高祖はこれを朝廷に送り返させた。高祖は安吉・武康二県(合わせて食邑五千戸)を賜った。
- 九月壬寅、太平元年と改元。高祖は丞相・録尚書事・鎮衛大将軍に進み、刺史の呼称を牧に改め、義興郡公に進封された。侍中・司徒・都督・班剣鼓吹甲仗皁輪車はそのまま。中散大夫王彭が「御路に龍の跡を見た」と上奏した。庚申、高祖の亡父に侍中光禄大夫・金章紫綬・義興郡公が追贈され、諡は恭とされた。十月甲戍、丞相の朝見の礼を優遇する詔が出された。
- 太平二年(557年)正月壬寅、天子が太極東堂で万国の朝賀を受け、高祖に班剣十人を加え計三十人とした。丁未、高祖の兄道談に散騎常侍・使持節・平北将軍・南兗州刺史・長城県公(諡は昭烈)、弟休光に侍中・使持節・驃騎将軍・南徐州刺史・武康県侯(諡は忠壮)が追贈され、食邑各二千戸とされた。甲寅、長城県夫人章氏が義興国夫人に冊立された。丁卯、高祖の祖父に侍中太常卿(諡は孝)、祖母許氏に呉郡嘉興県君(諡は敬)、妣張氏に義興国太夫人(諡は宣)が追贈された。
太平二年(557年)――蕭勃の乱、九錫、禅譲
- 二月庚午、蕭勃が広州で挙兵し嶺を越えて南康に駐屯、部将欧陽頠・傅泰と子の孜を先鋒として豫章方面の要地に進め、南江州刺史余孝頃もこれに呼応して挙兵した。高祖は周文育・侯安都に討平を命じた。
- 八月甲午、高祖は太傅に進み、黄鉞・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の礼遇と羽葆鼓吹一部を加賜された。侍中・都督・録尚書・鎮衛大将軍・揚州牧・義興郡公・班剣甲仗油幢皁輪車はそのまま。丙申、前後部の羽葆鼓吹が加えられた。このころ湘州刺史王琳が命に応じず、高祖は周文育・侯安都に討伐を命じた。
- 九月辛丑、詔により高祖は相国に進められ、揚州・南豫州・江州の陳留・南丹陽・宣城・呉興・東陽・新安・新寧・義興・鄱陽・臨川の十郡を割いて陳公に封じられ、九錫の礼を賜り、璽紱・遠遊冠・緑綟綬を加えられ、位は諸侯王の上に置かれた。鎮衛大将軍・揚州牧はそのまま。
- 詔・冊文(原文は長大な四六駢儷文)は、高祖の交州・広州平定、侯景討伐による建康奪還、王僧辯誅殺による帝位継承の正常化、王琳・杜龕・徐嗣徽・任約ら反乱の鎮圧、民政における倹約撫民の徳など一連の功績を典故を連ねて称える内容で、これらの功に対し大輅・戎輅、玄牡二駟、衮冕の服、軒懸の楽、六佾の舞、朱戸、納陛、虎賁三百人、斧鉞、彤弓彤矢玈弓玈矢、秬鬯圭瓚の九錫が授けられた。
- 十月戊辰、高祖は王爵に進み、会稽・臨海・永嘉・建安・晉陵・信義・潯陽・豫章・安成・廬陵など二十郡を益封され陳国とされた。相国・揚州牧・鎮衛大将軍はそのまま。冕十二旒・天子の旌旗・出警入蹕・金根車・六馬・五時副車・旄頭雲罕・八佾の楽・鐘簴などが備えられ、王妃・王子女の爵号や陳台百官の制も旧典に依ることとされた。
- 辛未、梁帝は陳に禅位する詔を下した。詔は、梁の徳が衰え太清・承聖・天成と災難が続いたこと、相国陳王が天地と徳を合わせ社稷を救い億兆の民を塗炭から救った功(東は逆賊を誅し北は胡族を殲滅した功)を述べ、白環・素雉・甘露・醴泉・嘉禾・朱草などの瑞祥が続いたことを挙げて、唐虞・宋斉の故事に倣い帝位を譲ると告げるものだった。別の璽書でも、暦数は一族に留まらず有徳者に帰すという理を説き、高祖の交州・広州平定から侯景討伐、王僧辯誅殺、王琳ら討伐に至る功業を重ねて称え、火徳を継ぐ陳へ天命が移ったことを述べた。使持節兼太保侍中尚書左僕射平楽亭侯王通、兼太尉司徒左長史王瑒を遣わし皇帝の璽綬を奉じさせ、受禅の礼を唐虞の故事に依らせた。
- この日、梁帝は別宮に退いた。高祖は再三謙譲したが、群臣の固請によりついにこれを受けることとした。