隋唐演義第七十七回 昏主を鴆殺すること子供の戯れのごとく、逆后を斬って人心大いに快しとする (鴆昏主竟同兒戲 斬逆後大快人心)
上官婉児の専横と韋后一派の跋扈
(詞:帝が后妃に籠絡され、優柔不断のまま国政を私物化される様を描く)
古来、宮闈の乱れは春秋以来数多いが、唐の武后・韋后の甚だしさに勝るものはないとの評から始まる。上官婉児は彩楼での評詩以来ますます寵愛を受け、婕妤に昇り妃並みの待遇を得て驕り高ぶった。中宗は修文館を設け、沈佺期・宋之問・李嶠ら文才の士を学士とし、婉児にその優劣を評させたため、正論を唱える士人は用いられなくなった。
婉児は宮外に私邸を構え、朝臣が出入りして取り入るようになり、崔湜・宗楚客らが婉児を通じて韋后・公主の腹心となった。中宗もしばしば微服で婉児の私邸などに出入りし、宮中の風紀は乱れきったが、諫めを申し出る者はいなかった。黄門侍郎宋璟だけが密奏し、微行や宮女の放出、俳優の混雑を厳しく戒めたが、中宗は取り上げなかった。
安楽公主派の栄達と朝政の腐敗
太平公主・安楽公主は開府して官属を置き、多くの佞臣がその官に群がった。安楽公主府の馬秦客(医術に通じる)・楊均(料理に長ける)は美貌により公主・韋后の寵を得て昇進した。崔湜・宗楚客は婉児・韋后・公主に取り入って宰相となり、以後は情実による濫官がはびこり、「三無坐処」(宰相・御史・員外郎が多すぎて坐る場所もない)と評されるほどになった。吏部の選任も賄賂で動く有様であった。
突厥の默啜と通じて賄賂を受けた宗楚客が監察御史崔琬に弾劾されたが、中宗はこれを不問にし、両者を義兄弟として和解させ「和事天子」と揶揄された。処士韋月将が武三思と韋后の私通を訴えた際も、宋璟の諫めでかろうじて死罪を免れ流罪となった。太子重俊の廃立や皇太女擁立の話も魏元忠の諫めで沙汰止みとなり、韋后・安楽公主は不満を募らせた。
韋后の毒殺謀議と太子重俊の変
韋后は楊均・馬秦客と密議し、中宗を除いて臨朝称制することを図った。折しも太子重俊は韋后の廃立の企みを察知し、先手を打って御林軍を率い武三思・武崇訓を殺害したが、上官婉児討伐には至らず、李多祚の敗死と共に太子も乱軍中に討たれた。
武崇訓の死後、中宗はその弟武延秀を安楽公主の新たな駙馬とし、倫理を乱した。参軍燕欽融が韋后の淫乱と宗楚客らの謀反を訴える上疏を行ったが、韋后はこれを撲殺させた。中宗の不興を見た韋后は、楊均・馬秦客に命じて毒薬を中宗の好物の餅に仕込ませ、これを食した中宗を人参湯で仕上げに毒殺した。
韋后誅殺と睿宗即位
韋后は喪を秘し、太平公主・上官婉児に遺詔を起草させ、幼い温王重茂を帝位に就け自ら臨朝聴政した。宗楚客の勧めで韋氏一族が禁軍を掌握し、相王・太平公主排除の陰謀が進む中、臨淄王李隆基(相王第三子)は崔日用の密告で変事を知り、太平公主・鍾紹京・葛福順・劉幽求らと共に先んじて挙兵した。
夜半、羽林軍の韋氏一族を討ち取り、劉幽求は「韋后が先帝を毒殺し社稷を危うくした、逆党を誅して相王を立てよ」と呼びかけた。臨淄王の軍は玄武門を破り、韋后・楊均・馬秦客・武延秀・上官婉児・安楽公主を次々に誅殺し、宗楚客も捕らえられ腰斬に処された。臨淄王は相王に非礼を詫び、相王は「社稷の存続はお前の功」と労った。少帝重茂は太平公主に促され位を相王に譲り、相王が即位して睿宗となり、景雲元年と改元した。重俊・李多祚・燕欽融らを追贈し、韋后・安楽公主を庶人に落として韋党を捕縛した。韋后の妹婿王㴩や、韋后の乳母の夫であった竇従一は、連座を恐れ自らの妻を殺して忠誠を示す醜態を見せた。
太子冊立
景雲元年、睿宗は嫡長の宋王成器と大功のある平王隆基のいずれを太子にするか迷ったが、宋王が「国家安泰の時は嫡長を、危難の時は功ある者を立てるべき」と固辞したため、劉幽求の進言もあり隆基が太子に立てられた。後人はこの宋王の譲徳を高く評価している。
評語
宋王が功による太子擁立を素直に受け入れ兄弟の分を守ったことを賢者の行いとして称え、これに引き比べて過去の玄武門の変(李建成兄弟の争い)を思えば、兄弟が譲り合えば皆が全うできたはずだと惜しんでいる。