隋唐演義第七十八回 慈しみ深い上皇も悪しき公主を庇いきれず、生ける張説は死せる姚崇に及ばない (慈上皇難庇惡公主 生張說不及死姚崇)
太平公主の専横と隆基への警戒
(詞:太平公主が名に反して騒乱の種となり、天道は悪を許さぬことを詠む)
太平公主は太子隆基と共に韋氏誅滅・睿宗擁立に功があり、睿宗の寵愛も厚く、朝政に強い発言力を持った。子の薛崇行・崇敏・崇簡は皆王に封じられ、公主は権勢を恃んで奢侈に耽り、僧慧範ら寵愛する者を侍らせた。姚崇・宋璟ら剛直な大臣と、英明な太子隆基の存在が辛うじて小人の跋扈を抑えていた。
王琚との出会い
太子は狩猟の途中、村で気骨のある茶摘み女とその夫である隠士王琚に出会う。王琚の書斎で見た姚崇からの出仕を勧める書状から、太子は王琚が姚崇に見込まれた人物であると知り、深い印象を受けた。
太平公主の廃立謀議と監国
太平公主は太子の英明さを恐れ、睿宗に讒言して廃太子を図ったが、侍臣韋安石の諫めで頓挫した。さらに兵変の流言を流させたが、張説・姚崇の進言により、逆に太子監国の詔が下ることとなった。太子監国により正式に召された王琚は、太平公主の専横をはっきり指摘し、太子の侍班となって謀議に参画するようになった。
譲位と玄宗即位、太平公主の誅滅
彗星の出現を太平公主は太子への警戒材料として利用しようとしたが、逆に睿宗は天意と受け止め太子への譲位を決意し、太子は即位して玄宗となった(先天元年)。姚崇・宋璟・王琚らを重用し政事は一新したが、太平公主はなお上皇の威を頼み専横を続け、蕭至忠・岑羲・竇懐貞・崔湜らと結んで廃立を謀った。侍御陸像先はこれに与せず拒絶した。
太平公主一派は宮人元氏を使い御膳に毒を仕込む計画を進めたが、王琚・崔日用・魏知古らの密告により玄宗は先手を打って挙兵し、岑羲・蕭至忠を斬り、竇懐貞は自ら縊死、崔湜・元氏も誅殺され、太平公主は寺に逃れたが捕らえられ賜死、僧慧範も誅された。上皇は事件を知り驚いたが、玄宗の奏上で事態を了解した。
陸像先は逆党に与しなかった功により昇進し、寛大な処置を進言して多くが赦された。太平公主の子薛崇簡は母をたびたび諫めていたことから死を免れ李姓を賜った。
姚崇と張説の確執
玄宗は姚崇を宰相に用いようとしたが、張説はこれを妬み妨害を図るも失敗し、逆に姚崇との関係が険悪化した。姚崇は張説が岐王と私交していることを玄宗に指摘し、張説は処罰の危機に陥ったが、賈全虚という謎の人物の仲介で九公主に働きかけ、夜光の珠を贈って取りなしを得、相州刺史への左遷で済んだ。張説は賈全虚に深く感謝したが、以後その行方は知れなかった。
宋璟の清廉と王毛仲
姚崇は年老いて宰相を辞し、宋璟を後任に推薦した。宋璟は誅乱の功臣王毛仲の権勢にも媚びず、その招宴に遅れて出席し、一献傾けただけで腹痛を理由に早々に退出するという態度で権勢を退けた。後に王毛仲は高力士との確執から驕慢を咎められ官爵を削られ流罪となり、のち賜死された。
姚崇の遺命と張説の碑文
姚崇は病没に際し、時政の要諦を説く遺表を残し、仏事を行わぬよう遺言した。生前不仲だった張説に自らの墓碑文を書かせるため、遺品の珍玩を弔問の際に見せて興味を引かせ、譲り渡して碑文を依頼させるという計略を子に授けた。計略通り張説は姚崇を称賛する碑文を書き、子はすぐに石に刻んで御覧に供した。後になって張説は後悔し碑文の書き直しを求めたが、既に刻まれ奏覧済みで取り返しがつかず、「死せる姚崇に生ける張説が謀られた」と嘆いた。
玄宗の治世の変化
姚崇没後、朝廷は文献の諡を贈った。張説・宋璟・王琚も相次いで世を去り、賢相韓休・張九齢も引退・死去し、朝廷の正しき人材は次第に失われていった。玄宗は在位が長くなるにつれ政事を怠り、即位当初の質素を旨とした姿勢から一転して奢侈と女色を好むようになった。武恵妃が最も寵愛されたが、その讒言により皇后王氏は廃され、太子瑛・鄂王・光王も同日に賜死されるという惨事が起きた。武恵妃も産後の急死により世を去り、玄宗は深く悲しんだ。
後宮に意に沿う者がなくなった玄宗は、高力士の勧めで民間から才貌ある女子を広く選び入れることとし、開元から天宝への治世の変化を暗示して回を閉じる。