隋書卷六十六 列傳第三十一 郎茂
北斉から北周への出仕
郎茂、字は蔚之。恆山新市の人。父の基は北斉の潁川太守。幼くして敏慧で7歳で『楚辞』『詩経』を暗誦、権会・張率禮に師事し経学・玄象・刑名の学を修めた。北斉で司空府行参軍から起家、陳使傅縡の応接、秘書省での典籍整理に携わり、保城令として善政で頌徳碑を立てられた。北周の平斉後、王誼の推薦で陳州戸曹、高祖が亳州総管の時に見出され書記を任され、周武帝の『象経』を巡る高祖との対話で親密な関係を結んだ。
衛国令としての善政と隋朝での経歴
高祖丞相時代、衛州司録・衛国令として能名を得た。多数の囚人を自ら審理し百余人を釈放、魏州刺史元暉の疑問にも「民は水、法令は堤防」と応じ論破した。不和な兄弟を諭して和解させる等の徳政で知られた。延州長史・太常丞・民部侍郎として、蘇威の煩瑣な制度(五品不遜の報告・余糧簿)の廃止を奏上、戦死者の子の田地保持等の制度も茂の提案による。仁壽初、大興令を領し、煬帝即位後は雍州司馬・太常少卿・尚書左丞として選事に参与、宇文愷・于仲文の河東銀鉱を巡る収賄を弾劾し両者を罪に問うた。『州郡図経』100巻を撰上し帛300段を賜った。
晩年の讒言と隠退
帝の巡幸で王綱が乱れる中、剛直な諫言を控え老齢を理由に辞去を願うも許されず、遼東親征の際は晋陽宮留守を務めたが恆山贊治王文同の讒言(朋党・欺瞞)で蘇威・裴蘊の取り調べを受け、両者との不和から罪を問われ弟の楚之と共に除名され且末郡に流された。道中『登壟賦』を作って自らを慰め、再度の上表で帝の理解を得て大業10年に京兆へ召還され、歳余で75歳で卒去した。子は知年。