隋書卷六十六 列傳第三十一 柳莊

梁・後梁での経歴

柳莊、字は思敬。河東解の人。梁の名家出身で博覧強記、蔡大寶に「襄陽の水鏡」と評され娘婿となった。後梁の蕭詧に参軍として登用され、蕭詧称帝後は中書舍人・給事黄門侍郎・吏部郎中・鴻臚卿を歴任。高祖輔政の際、蕭巋の使者として入朝し、高祖の後梁への信頼の言葉を伝えられた。当時、後梁の将帥は尉迥らとの連衡を画策していたが、莊は蕭巋に「尉迥らは天子を擁さぬ以上覆滅は必至、隋公が周に取って代わる」と説き、後梁が乱に与しない決断を導いた。実際に消難は陳へ逃亡し尉迥・王謙は誅殺され、蕭巋は莊の進言に感謝した。

隋朝での経歴と晩年

高祖践阼後、莊は再度入朝し労われ、晋王広の梁からの妃迎えでも往来を重ね厚遇された。蕭琮嗣位後は太府卿、後梁廃止後は開府儀同三司・給事黄門侍郎に進み田宅を賜った。政事に通じ駁正はことごとく帝に称賛され、蘇威は「江南人で学業と世務を兼ねる者は柳莊のみ」と評し、高熲とも親交が深かった。同僚の陳茂とは不和で、茂は帝の信任を得て莊を讒言し始めた。尚書省の量刑上奏を巡り「法は天下と共にするもの」と張釈之の言を引いて減刑を求めたが帝に容れられず忤旨、さらに薬の不手際を陳茂に密告され帝の怒りを買った。開皇11年、徐璒の江南反乱討伐に行軍総管長史として従軍し功を挙げ饒州刺史に転じ善政を敷いたが、数年後62歳で任地に卒去した。