隋書卷六十五 列傳第三十 薛世雄
出自と伊吾遠征
薛世雄、字は世英。河東汾陰の人。父の回は北周の涇州刺史、開皇初に舞陰郡公。幼少期から統率力を発揮し父に将来を嘱望された。北周武帝の平斉に従い帥都督、開皇年間も戦功を重ね儀同三司。煬帝嗣位後、番禺の夷獠討伐、吐谷渾討伐で通議大夫。清廉な性格を帝に評価され「挙げたい人物」として名指しされ右翊衛将軍に抜擢された。
伊吾城築城と晩年の敗戦
玉門道行軍大将として啓民可汗と連合し伊吾を攻めたが可汗の背約で孤軍となりながらも磧を越えて進軍、伊吾は恐れて降伏、新伊吾城を築いて凱旋し正議大夫に進んだ。遼東の役では沃沮道軍将として宇文述と共に平壌で敗れたが、白石山で敵に包囲された際は方陣で防ぎ勁騎200で反撃し脱出した(大敗の責は問われ免官)。翌年復職し右候衛将軍として蹋頓道に向かうも楊玄感の乱で班師、東北道大使として懐遠を鎮守、突厥討伐にも従った。左禦衛大将軍・涿郡留守として李密討伐に向かうが、竇建德の夜襲を受け河間で大敗、慚愧のうちに発病し涿郡で63歳で卒去した。子の萬述・萬淑・萬鈞・萬徹は皆驍武で知られた。