隋書卷六十五 列傳第三十 李景

出自と軍功

李景、字は道興。天水休官の人。父の超は北周の応・戎二州刺史。容貌魁偉で膂力に優れ、平斉の役で儀同三司、尉迥討伐の功で開府・平寇県公。開皇9年の伐陳、江南の乱鎮圧にも従い、遼東の役では馬軍総管、漢王配下となった。高祖はその壮武ぶりに「人臣を極める相」と評した。史万歳の突厥討伐(大斤山)でも別路から大破、義成公主送迎の際に突厥の来襲を受けた韓洪を数百の兵で救援し3日間力戦、韓州刺史。

漢王諒の乱鎮圧と晩年

仁壽中、代州総管を検校し漢王諒の乱を防いだ。諒の劉暠・喬鐘葵の攻撃を城の楼から弓で防ぎ、司馬馮孝慈・司法参軍呂玉・儀同三司侯莫陳乂ら部下の力を信じて任せる用兵で持ちこたえ、楊義臣の援軍と合流し大破した(この間、井戸に蓮の花が咲く、龍が現れる等の怪異があったが景は不祥として一蹴し、後に数万の戦死者が出た)。柱国・右武衛大将軍に進み厚く賞された。以後、向思多の反乱、吐谷渾討伐でも功を重ね光禄大夫。大業5年の西巡で天水にて主人役として齊王暕の上座に座らされたほど帝の信任は厚かったが、隴川宮での失言を密告され一時免官、後に復職し宇文述らと選挙を掌った。高麗武厲城攻略の功で苑丘侯、遼東の役の殿軍も務め滑国公に進んだ。楊玄感の乱に朝臣子弟が多く連座する中、景は無関係で「公は誠直の梁棟」と称され美女を賜るなど「李大将軍」と呼び捨てにされず遇された。北平で楊仲緒の乱を鎮圧、羅藝の讒言で謀反を疑われたが帝は疑わなかった。高開道に孤城を囲まれ1年余耐え、蓄えた軍資を私せず士卒を撫育した。帝崩御後、遼西太守鄧暠の救援で柳城に帰還、幽州への帰途で賊に殺害された。契丹・靺鞨も恩義を感じ哀惜したという。子は世謨。