隋書卷六十四 列傳第二十九 王辯
出自と反乱討伐
王辯、字は警略。馮翊蒲城の人。祖の訓は行商で富を成した。兵書を好み騎射に優れ大志を抱いた。北周で軍功により帥都督、開皇初に大都督、仁壽中に車騎将軍。漢王諒の乱に楊素に従い平定に功があり武寧県男。吐谷渾討伐、遼東の役でも功を重ね武賁郎将に進んだ。山東の魏刀兒(歴山飛)の乱を帝の面前で献策し大破、渤海の高士達討伐でも功を挙げ、以後郝孝德・孫宣雅・時季康・竇建德・魏刀兒らの群盗討伐で連戦連勝し賊に恐れられた。
洛口倉の戦いでの戦死
翟讓・李密が洛口倉に拠った際、王世充と共に討伐に向かい1年余対峙、王辯は密の営を攻め外柵を破り勝勢に乗じ入城しようとしたが、王世充が誤って兵を収めてしまい李密軍に乗じられ官軍は大潰走した。辯は洛水で橋が壊れ渡渉中に溺者に引き込まれ、重甲を着たまま敗兵に押し流されて溺死した。時に56歳。三軍は皆これを惜しんだ。
斛斯萬善――王辯と並ぶ驍将
河南の斛斯萬善は驍勇果毅で王辯と並び称された。大業中、衛玄に従い楊玄感を討伐し功を重ね、玄感自殺の場に立ち会って名を知られ武賁郎将を拝命。突厥始畢可汗の雁門包囲では奮戦して敵を退け、下馬して強弓で敵を射倒す活躍で突厥を退却させた。以後も群盗討伐に功を重ね将軍に至った。同時代の将軍鹿願・范貴・馮孝慈も名を知られたが事跡は失われ史書に記載がない。
史論
史臣曰く、楚漢の争いに絳侯周勃・灌嬰が力を尽くし、曹操・劉備の争いに関羽・張飛が名を立てたように、名を立てるのは草創の初めに拠り、力を発揮するのは経綸の会に候つ。李圓通・來護兒の輩、張定和・麥鐵杖の類は皆一時の壮士で貧賎に苦しんだが、鬱屈の時にも鴻鵠の志を秘めていた。ついには汚泥から身を起こし風雲に乗り、馬革に包まれる本懐を遂げ、生涯の志を果たしたのは、時を得たからこそである。魚俱羅の罪は本人の咎ではなく、王辯は強敵に身を殞したがその志は勤王にあった。陳棱が縞素で喪を発したのは行路の人々をも感動させ、その義は実に深い。麥孟才・錢傑・沈光らは恩を懐い旧を思い、難に臨んで生を忘れた者たちであり、功こそ成らなかったがその志は称えるに足る。