隋書卷六十四 列傳第二十九 來護兒
出自と平陳の功
來護兒、字は崇善。江都の人。幼くして志が大きく、『詩経』の勇壮な句に感じて武功を志した。賀若弼の壽州鎮守時に間諜として大都督を授かり、平陳の役で功を挙げ上開府。楊素の高智慧討伐では敵の岸営を数百の軽舟で奇襲し破り、智慧を泉州まで追撃し閩・越へ潰走させた。大将軍・泉州刺史。盛道延の乱を平定し、李寛と共に汪文進を黟・歙で破って柱国に進んだ。仁壽3年、瀛州刺史・黄県公、上柱国・右禦衛将軍。煬帝即位後、右驍衛大将軍として親重され、大業6年の江都行幸では先祖の墓参と父老への宴を賜り栄誉とされた。
遼東の役と江都の変
右翊衛大将軍として遼東の役では楼船で浿水から進み平壌の60里手前で高麗軍を破り城郭にまで迫ったが、軍紀が乱れ高元の弟建武の敢死隊に敗れ、宇文述らの敗北を知り班師した。翌年も滄海道から出征し楊玄感の乱には宇文述らと共に鎮圧、榮国公に進んだ。大業10年、卑奢城で高麗軍を大破、平壌に迫った際、高元が斛斯政の身柄を差し出し降伏を求めたため帝は撤兵を命じたが、護兒は「三度の出兵で賊を平らげられず、今引けば再来できない」と撤兵を拒み続けたが、長史崔君肅らの説得で諸将が撤兵に傾き、ついに詔に従った。大業13年、左翊衛大将軍・開府儀同三司に進み、江都の変で宇文化及に妬まれ殺害された。長子の楷は散騎郎・朝散大夫、次男の弘は果毅郎将・金紫光禄大夫、三男の整は武賁郎将・右光禄大夫で群盗討伐に功があり「榮公第六郎」と賊に恐れられる歌が作られたが、化及の乱で皆殺害され、末子の恆・濟のみ難を免れた。