隋書卷六十三 列傳第二十八 樊子蓋

出自と隋朝への出仕

樊子蓋、字は華宗。廬江の人。祖の道則は梁の越州刺史、父の儒は侯景の乱で北斉に奔り仁州刺史に至った。子蓋は武興王行参軍から慎県令、東汝・北陳二郡太守、員外散騎常侍、富陽県侯を歴任。北周武帝の斉平定後、儀同三司・郢州刺史。高祖受禅後、儀同として郷兵を領し、樅陽太守。平陳の役の功で上開府・上蔡県伯に改封され物3千段・粟9千斛を賜り、辰州・嵩州刺史を歴任、母憂で去職後、齊州刺史を固辞するも許されず、循州総管に転じ便宜従事を許され、開皇18年入朝し嶺南地図を奏上し良馬雑物を賜って任地に戻った。

武威太守としての善政

煬帝即位後、涼州刺史を経て銀青光禄大夫・武威太守として善政で聞こえ、大業3年入朝時に帝から特に褒美を受け、詔で龔遂・汲黯らに比され金紫光禄大夫に進み物千段を賜った。5年の西巡で青木香を献じ霧露を防いだ功もあり、清廉さを称される詔とともに賜物を受け右光禄大夫に進んだ。処羅可汗・高昌王の応接も検校武威太守として担った。

東都留守と楊玄感討伐

遼東の役で左武衛将軍を摂したが宿衛のため出征せず、左光禄大夫に進み涿郡留守、次いで東都留守となった。楊玄感が東都に迫った際、河南贊治裴弘策が敗れたため子蓋はこれを斬って軍紀を正し、不敬の国子祭酒楊汪も斬ろうとして頓首流血の末に赦した。三軍は震慄し玄感の猛攻を防ぎきり、来護児らの援軍到着で玄感は退いた。子蓋の誅殺した者は数万に及んだ。その後は検校河南内史となり、帝に「蕭何・寇恂の如し」と称され光禄大夫・建安侯に進み縑3千匹・女楽50人を賜った(固辞するも許されず)。帝は越王侗を東都に留守させる際、子蓋に「社稷の大事は終に公に委ねる」と玉麟符を特製で与えた。楊玄感の乱平定後、済公に進爵、縑3千匹・奴婢20口を賜り、積翠亭の宴で帝から自ら金杯を賜る栄誉を受けた。

雁門の変と晩年

大業11年、雁門で帝が突厥に包囲された際、子蓋は帝の突囲を諫め、援軍を待つよう説き涙して遼東の役の一時停止を願い、帝はこれに従った。援軍到来で突厥は退いた。納言蘇威が過重な勲賞の見直しを求めたが子蓋は信を失うべきでないと執奏した。絳郡の賊敬槃陀・柴保昌らの討伐を命じられた際、汾水北岸の村落を焼き払う強硬策で百姓を驚かせかえって賊を増やし、投降者も皆坑殺したため数年討伐に苦しみ召還された。宜陽の賊討伐にも向かったが病で停止、京第で72歳で卒去。帝は悲しみ、裴矩に臨終の言葉を尋ねさせると「雁門の恥を深く恨んでいた」との答えに帝は嘆息、百官に弔問させ縑3百匹・米5百斛を賜り開府儀同三司を追贈、諡は景。会葬者は万余人に及んだ。子蓋は権略に乏しいが軍中で持重し敗北なく、民には明察であったが厳酷で殺戮を好み、臨終には斬首された者の亡霊に悩まされたという。