隋書卷六十 列傳第二十五 崔仲方

崔仲方、字は不斉、博陵安平の人。若くして周の太祖に見出され高祖と親しく交わった。北周の斉平定戦で先登の功を挙げ、高祖の丞相就任・受禅を早くから支持し正朔・服色の制定にも関わった。朔方・霊武の長城築造など辺境防備に功があり、討陳に先立って「陳を取る策」を上書して平定の理を説いた。晩年は漢王楊諒の乱平定にも当たり、七十六歳で没した。

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出自と北周での経歴

  • 崔仲方、字は不斉、博陵安平の人。祖父の崔孝芬は魏の荊州刺史、父の崔宣猷は周の小司徒。仲方は若くして読書を好み文武の才幹があった。十五歳の時、周の太祖はこれを見て異とし諸子と共に学ばせた。当時高祖もその中におり、これにより仲方は高祖と若くして親しくなった。
  • 明経により晋公宇文護の参軍事として出仕、まもなく記室に転じ司玉大夫に遷り、斛斯徴・柳敏らと共に礼律を修めた。のち軍功により平東将軍・銀青光禄大夫を授かり石城県男(食邑三百戸)を賜った。
  • 武帝が密かに斉滅亡の志を抱いた際、仲方は二十策を献じ帝は大いにこれを奇とした。のち少内史の趙芬と格式を刪定した。まもなく帝の晋州攻めに従い、斉の亜将崔景嵩が内応を申し出ると仲方は段文振らと共に城壁に登って応接し晋州を陥落させた(詳細は「段文振伝」に記す)。さらに仲方に翼城など四城を説得させ陥落させた。儀同を授かり范陽県侯に進爵した。のち行軍長史として郯公王軌に従い呉明徹を呂梁で捕らえ、仲方の計策が多くを占めた。宣帝即位後、少内史となり淮南への使者を務め帰還した。

高祖の受禅への貢献

  • 帝が崩じると高祖が丞相となり、仲方と会って手を握り大いに歓談し、仲方も心を高祖に寄せた。その夜、便宜十八事を上奏すると高祖はいずれも嘉納した。仲方はまた衆望が高祖に帰していることを見て密かに高祖に天命に応じて受禅するよう勧め、高祖はこれに従った。
  • 受禅後、上は仲方と高熲を召して正朔・服色の事を議した。仲方は「晋は金行、後魏は水、周は木にあたります。皇家(隋)は火が木を承け天の統を得ています。また聖躬(高祖)誕生の折には赤光の瑞がありました、車服・旗・牲はすべて赤を用いるべきです」と述べた。また六官(周の官制)を廃し漢・魏の旧に依るよう勧め、上はいずれも従った。
  • 上開府に進み、まもなく司農少卿に転じ安固県公に進爵。丁三万人を発して朔方・霊武に長城を築かせ、東は黄河に至り西は綏州に至り南は勃出嶺に至る七百里に及ぶものとした。翌年、上は再び仲方に丁十五万人を発させ朔方以東の辺境の険要な地に数十城を築かせ胡寇を防がせた。

「陳を取る策」

  • 父の喪により去職し、一年経たぬうちに虢州刺史に起用された。陳を取る策を上書した。
  • その上書は、晋の太康元年(280年、庚子)の晋の呉平定から開皇六年(586年、丙午)までがちょうど三百七年に当たり、『春秋宝乾図』が「王者は三百年で一度法を改める」と説くこと、陳が丙子の年に興り丙午の年に至ることから子午の相冲(陰陽の忌み)にあたること、さらに古人の予言や五行説を引いて陳の滅亡の時期が近いことを論じる。さらに「天の時は地の利に及ばず、地の利は人の和に及ばない」として、隋の主は聖で臣は良く兵は強く国は富み、対する陳は主が上で昏く民が下で怨嗟しているという人事の面からも陳の滅亡は疑いないと述べる。
  • 具体策としては、武昌以下の蘄・和・滁・方・呉・海などの州にさらに精兵を配し密かに渡河の計画を練ること、益・信・襄・荊・基・郢などの州で急ぎ舟楫を造り水戦の備えを大々的に整えること、蜀・漢の二江が長江上流の要衝であるため必ず争奪の地となること、陳軍が上流に兵を集めるなら下流の諸将は好機を見て渡河すべきこと、陳が長江・五湖の険を頼んでも徳がなければ固めにならず、三呉・百越の兵を擁しても恩がなければ自立できないことを説いた。

平陳後の羌討伐と晩年

  • 上はこれを読んで大いに喜び、仲方を基州刺史に転じ入朝させた。仲方は面前で経略を陳べ上はこれを善しとし御袍袴と雑彩五百段を賜り開府に進めて遣わした。大挙して陳を討つ際、仲方は行軍総管として秦王(楊俊)の軍と合流した。陳平定後、事に坐して免ぜられたが、まもなく復位した。
  • 数年後、会州総管に転じた。当時諸羌はなお服属しておらず、詔により仲方はこれを討ち、賊と三十余戦し、紫祖・四鄰・望方・渉題・幹碉・小鉄囲山・白男王・弱水などの諸部をことごとく平定した。奴婢百三十口・黄金三十斤・雑物相応を賜った。

漢王諒の乱平定と最期

  • 仁壽初め、代州総管を授かり在職数年ののち召還された。上が崩じ漢王楊諒の残党が呂州に拠って降らなかった折、煬帝は周羅にこれを攻めさせたが流れ矢に当たって卒したため、仲方に代わってその衆を総べさせ、一月余りでこれを陥落させた。大将軍に進み民部尚書を拝し、まもなく礼部尚書に転じた。三年後、事に坐して免官された。まもなく国子祭酒となり太常卿に転じた。朝廷は仲方の老齢を理由に上郡太守に出した。まもなく母の喪により去職し、一年余りで信都太守に起用されたが致仕を願う上表をし優詔で許された。まもなく家で卒した。時に七十六歳。子の崔民寿は定陶令に至った。