煬帝への孝と最期
- 趙王・楊杲、幼名は季子。七歳で大業九年(613年)に趙王に封じられた。まもなく光禄大夫を授かり河南尹を拝した。淮南への行幸に従い詔により江都太守事を行った。杲は聡明で容姿美しく、帝が詞賦を作ると杲は多くをすぐに暗誦できた。至孝な性格で、帝が体調を崩し食が進まぬのを見ると、杲も終日食を断ったという。また蕭皇后が灸を受けようとした際、杲は先に自ら艾(もぐさ)の熱さを試させてほしいと願ったが皇后は許さなかった。杲は泣いて「皇后がお飲みになる薬はすべて私が味見してきました、今回の灸も炷(灸の火種)を味わわせてください」と願い、悲しみに咽び続けたため、皇后はついに灸を止めた、これにより一段と可愛がられた。
- のち化及の反乱に遭い、杲は帝のそばで号泣し続けた。裴虔通が賊に命じて帝の前で杲を斬らせると、その血は帝の衣に飛び散った。時に十二歳。
史論
- 元德太子は生まれつき謹厳な性格で人君たる度量があったが、天寿を全うできなかった、悲しいことである。齊王は聡明さでは称すべきものがあったが志は遠大に及ばず、かなり驕り僭越な心を抱いていた、そのため煬帝に疎まれ忌まれた。心には父子の親愛がなく表面だけ君臣の敬を装った、身に善行を積まなければ国にも余殃が及ぶ。ついに趙王・燕王・越王すべてが非業の死を遂げるに至った、悲しいことである。