出自と経歴、侯白
- 陸爽、字は開明、魏郡臨漳の人。祖父の陸順宗は魏の南青州刺史、父の陸概之は斉の霍州刺史。爽は幼くして聡敏、九歳で就学し日に二千余言を暗誦した。斉の尚書僕射楊遵彦はこれを見て「陸氏には代々人材がいる」と評した。
- 十七歳で斉の司州牧・清河王高嶽に主簿として召され、殿中侍御史に抜擢、まもなく治書を兼ね中書侍郎に累遷。斉滅亡後、周の武帝がその名を聞き陽休之・袁叔徳ら十余人と共に関中へ召された。他の者は多く輜重を携えたが、爽だけは書数千巻を載せたという。長安に至ると宣納上士を授かった。
- 高祖受禅後、太子内直監に転じ、まもなく太子洗馬に遷った。左庶子の宇文愷らと共に『東宮典記』七十巻を撰した。朝廷はその博学と弁舌を評価し、陳の使者が来るたびに迎え労わせた。開皇十一年(591年)、任地で卒した。時に五十三歳。上儀同・宣州刺史を追贈され帛百匹を賜った。
- 子の陸法言は敏学で家風を継ぎ承奉郎として出仕した。かつて陸爽が太子洗馬であった時、高祖に「皇太子の諸子にはまだ良い名がありません、『春秋』の義に依り改めて名字を立てるべきです」と上奏し上はこれに従った。しかし太子(楊勇)が廃されると、上は「わが孫の命名など、私が自ら解決できぬはずがあろうか、陸爽はなんと余計なことをしたのか。勇を惑わせたのもこの者によるところが大きい」と激怒し、陸法言はついに連座して除名された。
侯白
- 爽と同郡の侯白、字は君素、学を好み機知に富み、滑稽な性格で弁舌に優れた。秀才に挙げられ儒林郎となった。洒脱で威儀を気にせず、諧謔や雑話を好んだため人々に親しまれ、彼のいる所には見物人が市のように集まった。楊素は大いに彼を親しんだ。ある時、素が牛弘と共に退朝すると、白は「日が暮れましたね(日之夕矣)」と言い、素は「私を牛(弘)や羊(牛弘の名の連想)が下山する対象と言うのか」と大笑いしたという。
- 高祖はその名を聞いて召して語り大いに喜び、秘書省で国史を修めさせた。抜擢しようとするたび高祖は「侯白は官職に堪えられまい」と言って取りやめた。のち五品の食禄を給されたが、一月余りで死んだ。時人はその薄命を悲しんだ。『旌異記』十五巻を著し世に流布した。