隋書卷五十六 列傳第二十一 宇文弼
宇文弼、字は公輔、河南洛陽の人(生年不明-?、六十二歳で没)。北周から隋にかけ辺境防衛・平陳の役などで武功を重ね刑部尚書などを歴任した。煬帝の即位後、その奢侈な政と長城の役を批判したことを密告され誅殺された。天下はこれを冤罪と見なした。
出自と北周での経歴
- 宇文弼、字は公輔、河南洛陽の人、その先祖は周室と同源であった。祖父の宇文直力覲は魏の巨鹿太守、父の宇文珍は周の宕州刺史。弼は慷慨で大節があり博学多通、周に礼部上士として仕えた。
- 鄧至国および黒水・龍涸諸羌への使者として派遣され、前後降附させた部族は三十余部に及んだ。帰還後は詔を奉じて『五礼』を修定し、書が完成すると公田十二頃・粟百石を賜った。少吏部に累遷し八人を県令に抜擢しいずれも異績を挙げたため、当時人を見る目があると評された。内史都上士に転じた。
- 武帝が河陽から出兵し斉を討とうとした際、臣下に諮ると弼は「斉氏の建国はすでに数代、無道とはいえ籓屏の任にはなお人材がいます。今回の用兵は地を選ぶべきです。河陽は要衝で精兵が集まっており、力を尽くして攻囲しても志を得がたいでしょう。私見では、汾水の曲がった辺りの小さく平坦な守りは攻めやすいものです。用兵の地としてはこれに勝るものはありません、陛下はご検討ください」と進策したが、帝はこれを聞き入れず師は結局功を成さなかった。
対斉戦と対突厥戦での軍功
- 建德五年(576年)、大挙して斉を討つ際、結局弼の計を用いた。弼は三輔の豪俠の少年数百人を募って別隊とし、帝に従い晋州を攻め落とした。身に三つの傷を負いながら苦戦し続け、帝はこれを奇として壮とした。のち帝の斉平定に従い功により上儀同を拝し武威県公(食邑千五百戸)に封じられ物千五百段・奴婢百五十口・馬牛羊千余頭を賜り司州総管司録を拝した。
- 宣帝即位後、左守廟大夫に遷った。突厥が甘州を侵すと帝は侯莫陳昶に兵を率いて撃たせ、弼は監軍となった。昶に「悪賢い虜の勢いは、来る時は激矢のよう、去る時は絶えた弦のようです、追いかけても追いつけないでしょう。むしろ精騎を選んで祁連の西へ直行すべきです。賊がもし軍を収めるなら必ず蓼泉の北から通ります、この地は険しく低湿でもあり、人馬の通過には三日はかかる、緩やかに追撃すればどうして追いつけないことがありましょう。彼が疲れ我が逸するなら必ず破れます、この路を要撃するのがまさに上策です」と説いたが、昶はこれを用いず西の合黎を取ろうとし大軍の行が遅れ虜はすでに塞外へ出てしまった。
- その年、弼はまた梁士彦に従い寿陽を攻め落とし、まもなく安楽県公(食邑六百戸を加増)に改封され物六百段と口馬を賜った。澮州刺史を授かり、まもなく南司州刺史に転じた。司馬消難が陳へ奔った際、弼は追撃したが追いつけなかった。陳将樊毅と漳口で遭遇し朝から昼まで三戦三勝し虜獲三千人を得た。黄州刺史を授かり、まもなく南定州刺史に転じた。
高祖への出仕と平陳の役
- 開皇初め、前功により平昌県公(食邑千二百戸を加増)に封じられ入朝して尚書右丞となった。西羌が内附した際、詔により弼は持節してこれを安集し鹽澤・蒲昌の二郡を設置して帰還した。尚書左丞に遷り、職務にあたって正色を保ち百僚に恐れられた。
- 開皇三年(583年)、突厥が甘州を侵すと行軍司馬として元帥竇栄定に従い撃破した。帰還後は太僕少卿を授かり吏部侍郎に転じた。平陳の役では楊素が信州道から出た際、弼は持節して諸軍の節度を務め行軍総管を領した。劉仁恩が陳将呂仲粛を破った際にも弼の謀略があった。開府を加えられ刑部尚書に抜擢され太子虞候率を領した。
- 上がかつて釈奠(孔子祭祀)に臨んだ際、弼が博士と論議した詞は清遠で観る者は皆注目した。上は大いに喜び侍臣に「朕は今日、周公の礼制と宣尼(孔子)の孝の論を見た、実に心が慰められた」と述べ、それぞれに賜物をした。
- 当時朝廷は晋陽を重鎮とし并州総管は必ず親王に任せ、その長史・司馬も当代随一の人選をしていた。前長史の王韶が卒すると、弼の文武の才幹を見て并州長史に出された。まもなく父の喪により去職したが詔でまもなく復職させられた。開皇十八年(598年)、遼東の役では元帥漢王府司馬を授かり行軍総管も領した。軍の帰還後、朔州・代州・呉州の三州総管を歴任し、いずれも能吏として称された。
煬帝への諫言と誅殺
- 煬帝即位後、刑部尚書に召され持節して河北を巡省した。帰還して泉州刺史を授かり、一年余りで再び刑部尚書を拝し、まもなく礼部尚書に転じた。弼は才能で著名で顕要の職を歴任し声望は甚だ重く、世論も多く彼を推許したため、帝はこれをかなり忌んだ。
- 当時帝は次第に声色を好み遠征に力を注ぐようになったが、弼は高熲に「昔、周の天元(宣帝)は声色を好んで国が滅びた、今と比べればさらに甚だしいではないか」と語り、また「長城の役は緊急の務めではない」とも述べた。これを密告する者があり、ついに誅殺された。時に六十二歳。天下はこれを冤罪と見なした。著した辞賦は二十余万言、『尚書』『孝経注』が当時流布した。子に宇文儉・宇文瑗がいる。