出自と北周での経歴
- 薛胄、字は紹玄、河東汾陰の人。父の薛端は周の蔡州刺史。胄は若くして聡明で、珍しい書を見るたびその意義を理解した。常に注釈者が聖人の深旨を理解していないと嘆き、自らの考えで解釈すると諸儒はいずれも称賛した。慷慨な性格で功名を立てる志を持った。周の明帝の時、文城郡公を襲爵。上儀同に累遷し、まもなく司金大夫を拝し、のち開府を加えられた。
兗州刺史としての名裁き
- 高祖受禅後、魯州刺史に抜擢されたが赴任せず廬州総管事を検校し、まもなく兗州刺史を授かった。着任すると数百人の囚人がおり、胄はこれを十日ほどで裁断し牢は空になった。
- 陳州の人・向道力という者が高平郡守を偽称して赴任しようとしていたのを、胄は途上でこれに遭い異様さを察して留めて詰問しようとしたが、司馬の王君馥が固く諫めたため郡へ行かせた。まもなく後悔し主簿を遣って追い道力を捕らえさせた。
- 部下の徐俱羅という者はかつて海陵郡守を務めていたが、先立って道力にすでに偽って代わられており、任期が満了するまで公私共に気づかなかった。俱羅は君馥に「向道力は正式に俱羅に代わって郡を治めているのに、使君(胄)はなぜ疑うのですか」と語ったため、君馥は俱羅の言葉をもって胄に固く再考を求めた。胄は君馥を叱って「私はすでにこの者が詐りであると見抜いている、司馬が奸を許容するなら連座させるぞ」と言い、君馥はようやく黙った。ついに道力を捕らえると詐称を認めた。奸を暴くことはいずれもこの類で、当時の人々は神明と称した。
- 先立って兗州城の東で沂水・泗水の二水が合流し南へ流れ込み大沢の中で氾濫していたが、胄は石を積んで堰を作り西へ流すようにし、湿地はことごとく良田となった。また運漕を通し淮海の利をすべて活かし、百姓はこれに頼り「薛公豊兗渠」と呼んだ。
- 胄は天下が太平であることから封禅の儀を行うべきだと考え、博士を遣って太山に登らせ古跡を観察させ『封禅図』と儀礼を撰して上奏したが、高祖は謙譲してこれを許さなかった。
高熲弾劾事件と晩年
- のち郢州刺史に転じ前後いずれも善政を敷いた。召還されて衛尉卿を拝し、まもなく大理卿に転じ、法の執行が寛平で称職とされた。のち刑部尚書に遷った。当時左僕射の高熲がやや疎まれ忌まれ始め、王世積の誅殺の際に熲の事件に連座することとなり、上はこれを機に熲の罪を成立させようとしたが、胄は明らかにこれを雪ぎ、公正に裁いた。これにより上意に逆らい械(かせ)に繋がれたが、長らくして赦された。
- 相州事を検校し能吏として名を挙げた。漢王楊諒が并州で反乱すると偽将の綦良を東方に略地させ慈州に迫った。刺史の上官政が胄に援軍を求めたが、胄は諒の兵鋒を恐れて拒まなかった。良がさらに兵を率いて胄を攻めると、胄は計をもってこれを退けようと親しい者の魯世範を遣り「天下の事はまだ分からない、私は臣たる身として去就は然るべき所を得るべきだ、どうしてこう攻め合う必要があろうか」と良に説かせた。良はこれを聞いて兵を引き黎陽を攻めに向かった。良が史祥に攻められると軍を捨てて胄のもとへ帰った。朝廷は胄が二心を抱いていると考え鎖で大理へ召還した。相州の吏人はかねて胄の恩を慕っており、闕に詣で理を訴える者は百余人に及んだが、胄はついに除名され嶺南への配防となり、道中で病により卒した。子の薛儒・薛献は共に知られた人物であった。