隋書卷五十六 列傳第二十一 令狐熙

令狐熙、字は長熙、燉煌の人(生年不明-?、六十三歳で没)。北周から隋にかけ地方官として各地で善政を挙げ、開皇八年(588年)の汴州刺史時代には考績天下第一とされた。のち桂州総管として嶺南を経略したが、李仏子の反乱に絡み賄賂の疑いをかけられ、召還される途上で病没した。没後に無実が判明した。

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出自と北周での経歴

  • 令狐熙、字は長熙、燉煌の人、代々西州の豪族。父の令狐整は周に仕え大将軍・始州および豊州刺史に至った。熙は厳重な性格で雅量があり、私室にあっても終日儼然としていた。みだりに賓客と交わらず、交わる相手は必ず一時の名士であった。群書を博覧しとりわけ『三礼』に明るく、騎射に優れ音律にも通じた。
  • 通経により吏部上士として出仕、まもなく都督・輔国将軍を授かり夏官府都上士に転じ、いずれも能吏の評判を得た。母の喪により去職した際は喪に堪えられぬほど痩せ衰え、父の令狐整は「大孝は親を安んじることにある、義として嗣を絶やしてはならぬ。私はまだ存命だが、そなたも独り立ちの身、なぜこれほど衰え私に心配をかけるのか」と戒め、熙はこれよりやや粥をとるようになった。
  • 服喪を終えると小駕部を授かったが、再び父の喪に遭い、杖にすがらねば立てぬほどであった。その泣声を聞いた者は皆涙したという。河陰の役では詔により墨衰(喪服のまま従軍)で従事し、帰還後は職方下大夫を授かり彭陽県公(食邑二千百戸)を襲爵した。武帝の斉平定の折、留守の功により食邑六百戸を加えられ儀同に進み、司勲・吏部の二曹の中大夫を歴任し当時の誉れが高かった。

高祖への出仕と地方官としての善政

  • 高祖の受禅に際し、熙は本官のまま納言事を行った。まもなく司徒左長史を授かり上儀同を加え河南郡公に進爵。吐谷渾が辺境を侵すと行軍長史として元帥元諧に従い討伐し功により上開府に進んだ。蜀王秀が蜀に鎮守した際、その綱紀の選任には皆正しい人物を充てたため、熙は益州総管長史に任じられたが赴任前に滄州刺史を拝した。
  • 山東は斉の弊風を継ぎ戸口の帳簿はいずれも実態と合わなかったが、熙はこれを説諭し自首させ帰順した者は一万戸に及んだ。在職数年で風教は大いに治まり良吏として称された。
  • 開皇四年(584年)、上が洛陽に行幸した際、熙が朝見に来ると吏民は彼が転任させられることを恐れ道で悲泣した。熙が戻ると百姓は境まで出迎え歓声が道に満ちたという。滄州では白烏・白麞・嘉麦を得、甘露が庭前の柳樹に降ったという。
  • 開皇八年(588年)、河北道行台度支尚書に転じると吏民は追慕し碑を立てて徳を頌えた。行台廃止後は并州総管司馬を授かり、のち召還されて雍州別駕、さらに長史に遷り鴻臚卿に転じた。のち本官のまま吏部尚書を兼ね五曹尚書事を判じ、明幹と称され上に大いに任用された。

汴州刺史から嶺南経略へ

  • 上が泰山への祭祀から還る途上汴州に至った際、その繁栄と奸俠の多さを憎み、熙を汴州刺史とした。熙は着任すると遊食を禁じ工商を抑え、街に向かって門を開く民の家を塞ぎ、郭外に星のように散在する船客は集落に組織させ、寄留者は本籍に帰らせ、滞獄はすべて処理し、令が行われ禁が止まる良政と称された。上はこれを聞いて嘉し侍臣に「鄴都は天下で治めがたい所だ」と述べ、相州刺史の豆盧通に熙の法を学ばせた。その年、熙が朝見すると考績は天下第一とされ帛三百匹を賜り天下に告知された。
  • 上は嶺南の夷・越がたびたび反乱することを憂い、熙を桂州総管十七州諸軍事に任じ便宜行事を許し、刺史以下の官は熙の裁量で承制補授できるとした。帳内五百人と帛五百匹を与え、家族を伝送させ武康郡公に改封した。熙が赴任すると恩信を大いに広め、渓洞の渠帥たちは「これまでの総管はみな武力で脅してきたが、今度は手ずから教え諭している、我らはどうして背けようか」と語り合い、相次いで帰附した。
  • それまで州県は治まりにくく、多くの長吏は赴任できず政を総管府に任せていたが、熙はことごとく赴任させ城邑を建て学校を開いたため、華夷ともに感化され大化と称された。

寧猛力の懐柔と晩年

  • 当時、陳の後主と同日に生まれ自ら貴相があると称していた寧猛力という者がおり、陳の時にすでに南海に拠っていたが、平陳後、高祖はこれを撫し安州刺史を拝した。しかし驕慢でその険阻な地形を恃み参謁したことがなかった。熙は自筆の書で交友の分を説いて諭し、猛力の母が病んだ際には薬物を贈った。猛力はこれに感じ府に詣でて拝謁し、以後は非行をなさなかった。
  • 熙は州県に同名が多いことから、安州を欽州、黄州を峰州、利州を智州、徳州を歓州、東寧を融州に改称するよう奏上し、上はこれをすべて許した。在職数年、上表して「臣は嶺表を任され、ここに四年、犬馬の齢は六十一になりました。才は軽く任は重く、恥じ恐れることばかりです、常に拙を収め賢に道を譲り官謗を免れたいと願っています。管轄の地は遠く広く綏撫は特に難しく、夷風を頓に改めることはできませんでしたが、皇化を漸次識らせることはできました。ただ臣はかねて消渇(糖尿病)を患い、近年ますます悪化し、筋力精神は衰えるばかりです。壮年の頃でさえ人に及ばなかったのに、いま病と老いが共に迫っている以上、なお重責を担うべきではありません。所任を解いていただきたく存じます」と願い出たが、優詔で許されず医薬を賜った。
  • 熙は詔を受け交州の渠帥李仏子を入朝させることになった。仏子は乱を起こそうとしていたが仲冬に上道すると言うので、熙は羈縻の意図でこれに従った。ある人が熙が仏子の賄賂を受けて放置したと訴え、上はこれを聞いて固く疑った。まもなく仏子が反したとの知らせが届くと、上は大いに怒りこれを事実と信じ、使者を遣わし熙を鎖で縛って召還させた。熙は元来剛直な性格で鬱々として志を得ぬまま、永州に至った際、憂憤して病を発し卒した。時に六十三歳。上の怒りは解けず、その家財を没収した。のち行軍総管劉方が李仏子を捕らえて京師に送ると、熙が実際には賄賂を受けていなかったことが判明し、上はようやく悟り、その四子を召して出仕を許した。末子の令狐徳棻が最も知られた人物である。