出自と北周での経歴
- 張威、出身は不詳。父の張琛は魏の弘農太守。威は若くして倜儻で大志を抱き騎射に優れ膂力は人に勝った。周に仕え度々征伐に従い官は柱国・京兆尹に至り長寿県公(食邑千戸)に封じられた。
王謙討伐と高祖への出仕
- 王謙が反乱すると高祖は威を行軍総管とし元帥梁睿に従わせた。軍が通谷に進むと謙の守将李三王が精兵を擁して拒み、睿は威を先鋒とした。三王が当初砦を閉じて戦わなかったため、威は人に罵らせて怒りを誘うと、三王は果たして陣を出た。威は壮士に奮撃させ三王軍は潰え大軍が続いて至り四千余人を捕らえて斬った。開遠に進むと謙の将趙儼の衆十万が三十里にわたって連営していたが、威は山を穿ち道を通して西嶺から背後を突き儼はついに敗走した。成都まで追撃し謙と大戦、威は中軍を率いた。謙平定後、上柱国に進み瀘州総管を拝した。
- 高祖受禅後、幽州・洛州の二州総管を歴任し晋煕郡公に改封。まもなく河北道行台僕射を拝し、のち晋王の軍府事を督した。数年後、青州総管を拝し銭八十万・米五百石・雑彩三百段を賜った。
晩年の過ちと恩赦
- 威は青州で盛んに産業を営み、家奴を民間に遣って蘆菔(大根)の根を売らせたため、その奴が百姓を侵擾するに至った。上は深く譴責し廃されて家に籠った。のち上が泰山への祭祀に従い洛陽に至った際、上は威に「私が天下を有してより公にはいつも重鎮を委ね、まさに赤心を推した。それなのになぜ名行を修めず利のみを見るのか、朕の心に背くばかりか卿の名徳をも累わせている」と述べ、さらに「公が持っていた笏は今どこにあるか」と問うと、威は頓首して「臣は罪を負い憲を欠く身、恐れ多くて再び持てず、謹んで家に仕舞ってあります」と答えた。上が「持ってくるように」と言うと、翌日威は笏を奉じて謁見し、上は「公は法度を守らなかったが功績は実に多い、朕はこれを忘れていない、今公の笏を返そう」と述べた。
- 洛州刺史に再び拝され、のち睆城郡公に封じられ相州刺史に転じ任地で卒した。子の張植は大業中に武賁郎将に至った。