隋書卷五十五 列傳第二十 乞伏慧

出自と北斉・北周での経歴

  • 乞伏慧、字は令和、馬邑鮮卑の人。祖父の乞伏周は魏の銀青光禄大夫、父の乞伏纂は金紫光禄大夫、共に第一領民酋長であった。慧は若くして慷慨で大節があり弓馬に長け鷹犬を好んだ。斉の文襄帝の時、行台左丞となり蕩寇将軍を加えられ、右衛将軍・太僕卿に累遷し永寧県公から宜民郡王に封じられた。兄の乞伏貴和も軍功で王となり一門で二王を出し貴顕と称された。
  • 周の武帝が斉を平定すると使持節・開府儀同大将軍を授かり佽飛右旅下大夫を拝し熊渠中大夫に転じた。高祖が丞相の時、韋孝寛に従い尉惇を武陟で撃ちことごとく破って大将軍を授かり物八百段を賜った。尉迥平定後、柱国に進み西河郡公(食邑三千戸)に封じられ物二千三百段を賜った。官爵を兄に譲りたいと願い出たが朝廷は許さず、論者はこれを義とした。

高祖への出仕と晩年

  • 高祖受禅後、曹州刺史を拝した。曹の旧俗は姦隠が多く戸口の帳簿は実態と合わなかったが、慧は着任すると調査し数万戸を見出した。涼州総管に遷る。先立って突厥がたびたび寇抄を行っていたが、慧は烽燧を厳警し遠く斥候を出したため虜もその名を恐れついに境を侵さなかった。
  • 一年余りで斉州刺史に転じ隠戸数千を見出した。壽州総管に遷り、その年杞州刺史に左遷され在職数年で徐州総管に遷った。時に年七十を超え致仕を求めたが許されなかった。まもなく荊州総管に転じ、さらに潭州・桂州二州総管三十一州諸軍事を領した。その俗は軽剽であったが慧は自ら質朴を行いこれを矯め風化は大いに治まった。かつて穀物で魚を捕らえる者を見ると絹を出して買い取り放してやった、その仁心はこのようなものであった。百姓はこれを美とし、その地を「西河公穀」と呼んだ。
  • 秦州総管に転じた。煬帝即位後、天水太守となった。大業五年(609年)、吐谷渾征伐の際、郡は西境に近く民は労役に苦しみ、また帝の西巡があったが道路整備が不十分で献上した食事が粗末であったため帝は大いに怒り左右に斬るよう命じたが、慧に髪がない(老いて禿頭であった)のを見て赦し除名して庶民とした。家で卒した。